みどり風通信│那覇市首里にある印刷会社「みどり印刷」

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みどり風通信
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 「ゆく年くる年」とNHKの番組タイトル風に言うとカッコイイが要するに、年末の雑事のドタバタで「年末年始合併 号」となった次第です。
 12月23日は、『天皇誕生日』今上陛下の生誕を祝した訳ではないが、沖縄市民会館で第42回の『メサイア演奏会』が開 催された。僕にとっては5回目となったので、メサイアやヘンデルの事を書いてみたくなった。僕にとって暮れの恒例 『Messiah』は競泳フリー100mに例ればゴール前20mをノンブレスで来てラスト5メートルのプール底面に見える白線 のようなものです。



〈ヘンデルの誕生〉

 1685年、ドイツは2人の類まれな大作曲家を生んだ。
 一人はヨハン・セバスチャン・バッハであり、もう一人は「メサイア」の作曲者のゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデ ルである。  (後にイギリスに帰化してジョージ・フレデリック・ヘンデル)当時のドイツは「30年戦争」で深刻な打 撃を受け、政治的には300の領邦国家に分かれている不安定な状況にあった。

ドイツのハレでヘンデルは医者の父と牧師の娘である母の間に生まれる。ヘンデルは幼い頃から既に音楽に対して異常な までの興味を示していたが、彼の父は我が子が生活の保障の無い芸術家になる事を心配し、彼に法律家となるための勉強 をさせ、音楽に触れる事を禁じた。しかし、いくら禁じても彼は音楽に対する情熱を失うことはなかった。

 ヘンデルは12歳の頃、父親を亡くしたが、その後も法律の勉強を続け17歳でハレ大学に入学する。しかし彼は大学の大 聖堂でオルガン奏者として活躍し、入学して一年ほど経った頃、大学生活と故郷を後にして、本格的に音楽活動を始める 為に自由都市ハンブルグへと旅立つ。

 ヘンデルはハンブルグをはじめ、イタリアのフィレンツェ、ナポリなど各地を遍歴し、一年と同じ所には居なかった。 彼はこの時期多くの人々と交流を持ち、多くの音楽との出逢いは、彼自身の音楽に大きな影響を与えた。特にオペラ発祥 の地イタリアではオペラ作曲に取り組み、教会音楽なども作曲し、イタリアの音楽様式を十分に身につけた。25歳の時、 新天地イギリスロンドンに移住し、その人脈を大いに活用して自由な作曲生活を送った。



〈メサイア〉

 1741年の夏、チャールズ・ジェネンスという資産家で当時高名な聖書研究家が聖書の有名な詩句から語句を厳選してヘ ンデルに作曲を依頼した。ジェネンスは当初2ヶ年程かけて、(じっくりと時間をかけて)『大作』を作って欲しいと期 待したが、彼の意に反してヘンデルは24日程度で50曲近くの一種の組曲風に仕上げた。 (曲や構想のストックも相当数 あったであろう)初演は1743年4月13日、アイルランド・ダブリン。

 『メサイア』は合唱曲あり、ソロあり、二重唱あり、語るような曲(レチタチーボ)や歌い上げる曲(アリア)と、オ ペラの手法を取り入れて非常に多彩に作られている。ヘンデルがドイツ・イタリア・イギリスという異なる三つの文化圏 で生活し、音楽を学んだ成果が遺憾無く発揮された作品ともいえる。 (異文化体験の妙味なのだろう。)

 ロンドンでの初演当時「たとえ神を賛美する内容とはいえ『劇場』で行うような『娯楽』作品に『救世主(メサイア) 』という名をつけ、宗教的な内容を演奏することは冒涜である」と言われ、これまでの宗教音楽のように中世の重々しく 単調なものとは大きく異なり、かなり派手で、エンターテイメント色の強い作品にバッシングも寄せられたようだが、「 いいものはいい」と結局受け容れられ大ヒットとなった。
 ヘンデルとジェネンスや興行主、劇場が多大な興行収入を得た事は説明を要しない。


〈ハリロヤと歌うHallelujah〉

約2時間30分という長い演奏時間の「メサイア」の中でも「Hallelujah」は最も人気があり、代表的な楽曲である。今で は中学校の合唱コンクールや卒業式で歌われる事も多い。
 1743年のロンドン初演の時、時のイギリス国王ジョージ2世はその美しい旋律についウトウトしていたが、NO44のハ レルヤの大音響に不覚にも脊髄反射を起こしてしまいスクット立上がるや両手まで打ち付けてしまったものだから、それ を見た全聴衆もそれに倣い立ち上がり拍手・・・・これが後のスタンディングオベーションになったと言われている。( ウ~ソデ~ス)

 僕のいる「テナー パート」は高音でハレルヤハレルヤハレルヤと息つくヒマなく、矢継ぎ早に歌う箇所がある。ネッ トの誰かのサイトで「ハレルヤをハリロヤと唄ったほうが唄い易い」と書いてあるのを見て練習の時試してみたらビック リする程Good!なのである。「HA-」と縦に開けた口形(コウケイ正確には口腔形というべきか)口の中の大きな容積 を保ったままで舌を使ってRI・RO・YAと続けるのである。その方が響きもあるし、日本語の「は・れ・る・や」で は口形が平べったくなり、呼気の出る割合が多く、息を継ぐ度に少しづつ苦しくなり、「初心者の平泳ぎ」の様になって しまう。ハリロヤはスマートでクールな唱方なのである欧米人のハレルヤコーラスを聴いてみよ!
彼等はHallelujahと発声してるのであり、「ハレルヤ」と唱っているのではない。「ハレルヤ」は単なる日本 語の表記の為の文字でしかなく、どう聞こえるかが大切なのである。

※以上はサイト「くまさんのヘンデル『メサイア』のページ」をベースに、
これまでの僕の得た知見を織り込み作成した。Hallelujah←ここをクリック




焼き茄子に銘酒泡盛暑気払い

冬から春になっても暑気払いが続いてるとクレームが来そうだが・・・「吾には赦せ敷島の道」



還暦の少年夏を生きている



北へ向け上昇をするジェット機のテールランプに秋をみつける



「大根の花」
春の日に咲いている ひそやかな白い花 誰も目を留めないけど 美しく咲いている 
いまは亡い母さんの やさしさによく似てる あの頃はなにも知らず生きていた僕だけど
いまも なお その愛に包まれて 生きている

「大根の花」のオーケストラ版



今年も元気でヨカッタ!  来年も元気でいよう!
そうすれば、どんな事が起こっても 何とでもなる!
・・・・・と思った月曜の朝


「汀良市街地住宅集会場」これは後に「研鑽シリーズ」になり崎濱くんの年賀状へと進化する


番外編 浦添市経塚(きょうずか)のイルミネーション
クリスマスイブの夜、浦添市経塚に行きました。
(浦添市の南の端が経塚で、那覇の北端が首里でお互いに接している隣町です。)



ここをクリック←「浦添 市経塚のイルミネーションが本気すぎる」のページにジャンプします。


12月24日はクリスマスイブ、25日はクリスマス本チャン、どれが本当のクリスマス?(パーティーはどっちの方が本物な んだ?)と思った方は多いと思う。キリスト教に先立つユダヤ暦、ローマ帝国の暦では一日の境を日没としているので、 24日の日没から25日のクリスマスは始まるのです。



最後までお読みくださり有難うございます。今年もよろしくお願いします。

年玉をならべて置くや枕元 子規 H27.1.2

 正式名称は 沖縄「建白書」を実現し未来を拓く島ぐるみ会議 と呼ばれる。その事務局が主催して毎週月曜日の朝10 時からバス3台を借り切り、先着順で、代金は1000円。11時過ぎに辺野古漁港着、カヌー隊の出発を激励し、「へのこテン ト村」の現地の人達との交流、そして持参した弁当で昼食をとり、キャンプシュワーブ前の座り込みに合流し集会を持ち 、3時30分に現地を出発し、4時30分に出発点の県庁前県民広場前に帰ってくるというツアーの情報を得て早速友人4人と供 に参加した。
 今回はそのレポートである。
 予定した9月15日は(月)は「敬老の日」の公休日。「公休日なので、普段仕事をしている人達も参加し多人数になるの では?」とか「こういう催しはリタイアしたシニアが多いので、彼らは当日〈敬老会〉に出席していて案外少ないかも・ ・・」いろいろな考えが錯綜する中で「とにかく早めに到着すれば間違いない!」という意見に落ち着いて、朝8時30分、 みどり印刷前集合。モノレール儀保駅から出発に決定した。
 県民広場とはパレット久茂地向かいの角地の広場で9時10分に到着し、先着は4~5人で先ずは確実にバスに乗れると 安堵した。


XXXXXXXXXXXXXX辺野古・キャンプシュワーブ鳥瞰写真 XXXXXXXXXXXXXXXXXXX

 中央手前の護岸に囲まれているのが辺野古漁港、中央の菱形の白い部分がキャンプシュワーブの兵舎群、北東から南西 に国道329号が横切っていて、北西部に大きく広がる山林部には訓練場や弾薬庫がある。その左下の集落が辺野古。キャン プシュワーブの向こうに広がるのが大浦湾(最深部40~50M)大浦湾の付け根、写真の左奥に沖縄民謡の代表的抒情歌『二 見情話(ふたみじょうわ)』の生まれた二見の集落がある。「二見情話」については、あまり知られていない「物語」が ある。最終部の附録に外付けする。

   10時出発

 県庁前広場出発。壷川→古波蔵→国場→一日橋交差点を左折して北上、那覇インターから沖縄自動車道を一路名護市辺 野古を目指した。
 今年還暦を迎えた僕だが、本島北部の東海岸は今回で3回目ということで何処をどう通ったのかは説明できない。陽光ま ぶしく、進行方向左手の金武(きん)や恩納(おんな)の山々の稜線が何と優美なのだろう!と溜息をついた。
 車中では、「島ぐるみ会議」のスタッフや各車両に割り当てられた講師による辺野古基地建設の経緯や現在の作業の進 捗状況が詳しく説明され、現場到着までの1時間余はまたたく間であった。

   辺野古漁港到着

     辺野古漁港

 バスは先ず辺野古漁港に着いた。漁港の側の浜辺には当日の海上からの監視活動に当たるカヌー隊(当日は12艇)と、 漁港脇にあるテント村で泊まり込んでの活動を続ける現地の人々、100人余がすでに集結していた。
 吾ら那覇からの応援組150人の到着が拡声器から告げられると、大きな拍手と歓声が湧き起こった。砂を踏みしめて高ぶ る気持ちを久し振りに感じながら、彼らの集団の輪に加わった。

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 思えば40数年前、祖国復帰の前年の夏、昭和46年(高2の頃)吾ら首里高校は全校生徒と教職員がバスをチャーターし て、当時の琉球列島高等弁務官ランパート陸軍中将のいる浦添キャンプキンザーにある米国軍政府庁舎に向け、当時の1号 線(現国道58号)を挟んでシュプレヒコールの拳を挙げた事を想いだした。僕にとってその時以来の直接政治行動であっ た。
 住民の分断を常套手段とする植民地政策が当時あり、また現在まで続いているのだ。何たることだ!

沖縄は日本ではないのか!  日本はアメリカの植民地か!  日本は本当に法治国家か?

米軍政府庁舎、右下は1号線そしてランパート中将


※ 高等弁務官は、アメリカ大統領の承認を得て、国防長官が現役アメリカ陸軍将官から任命した。高等弁務官の権限は強 大で、しばしば琉球政府の施策に介入したが、逆にそれが沖縄住民の反発を買い、復帰運動は激化していった。        By Wiki.

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 二つのラウドスピーカーを足元に置いて、連日現場を支えている沖縄平和運動センター議長の山城博治さんのダイナミ ックな演説を聞きながら「そうだ!その通りだ!」と頭の中はメサイアNO.53『 WORTY IS THE  LAMB  THAT WAS   SLAIN』のアーメンコーラス部分の旋律がフーガの嵐となって鳴り響いていた。(アーメンとは「然り、その通りの意 」)
 彼(山城さん)は、当日のカヌー隊に促して、一人一人が自己紹介を行った。12名中、3分の1程が地元沖縄の人、男女 比は半々、他は本土各地からの参加、その語り口と内容には「よそ者のセミプロ的政治活動家」という風情は微塵も感じ られなかった。むしろ地味で極普通の人達で誰に命じられた訳でもなく自分と向き合い、辺野古の問題を自分の問題とし てとらえ、自分で決めて沖縄辺野古の行動へと身を挺してきた、どちらかといえば繊細な感性を感じさせる人々であった 。
 その様な事も有り「現場に来て本物に出会い五感で感じ取る事の大切さを知った」自分にとって人生の大きな教 訓ともなった。

   キャンプシュワーブゲート前テント村到着

 三々五々、食事の後テント村の住民と語り合う者、木陰に佇む等、思い思いに過ごした後、1時にバスでキャンプシュ ワーブゲート前に移動した。
 キャンプシュワーブは二つの扇子(せんす)を広げて、その要(かなめ)部分でつなげた形をしていて下の三角形が海 に面した兵舎などの施設群、上の三角形森林部に訓練場や弾薬庫がある。その要の繋ぎ部分に国道329号が北東から南 西へと横断していてその結節部にゲート(基地正門)はある。
 ゲート前にはアルソック(総合警備保障)のガードマンが30人ほど二列横隊で並び、県警は(その日、特別な行動が 予定されていないせいか)1台の小型マイクロバスが在るだけであった。

 すでに150人余の人達が朝から座り込み、それに吾々の150人余の1個中隊が加わった。例によって「那覇からの 応援が到着しました」と放送されると、歓声と拍手、指笛の歓喜の嵐の中、テント村の住民となり集会となった。歌を唄 いシュプレヒコールの怒りの拳を天に突き上げた。久し振りに『沖縄を返せ!』
を唄った時にはなつかしくもあり、照れくさくもありで笑ってしまった。  固き土を破りて~ 民族のぉ~♪

僕のプラカード 横幅1メートル ユクシ→嘘いつわり フシガリマセン→「やってら んねー」の語感

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山城博治(やましろ ひろじ)
1952年沖縄生まれ。沖縄平和運動センター事務局長。法政大学社会
学部卒業。1982年に沖縄県庁に入庁。駐留軍従業員対策事業・不発弾対策事業・税務などを担当した後、2004年より現職 。辺野古新基地建設、東村高江のヘリパット建設反対運動など多くの平和・市民団体と連携、県内外に幅広いネットワー クを持つ。沖縄平和運動の象徴的的存在。
(目力〈めじから〉があり、行動力があり、声がデカく、ウーマク〈腕白者〉
沖縄人(ウチナーンチュ)の一典型というタイプで好感を覚えた)


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   帰路にて・・・・・・

 予定の3時30分となり、同じ1号車で帰途についた。左手の辺野古の集落を過ぎて、僕は右側車窓の恩納から金武の山並 みに見入ってしまった。なんとなだらかで優美な山並みなのだろうと息を呑む思いがした。イタジイ(木の名称)が多い せいかライトグリーンの柔らかい曲線は、普段見慣れている南部の大里や玉城の山並みとは大きく異なって『美しく優し い』のである。
 今まで何10回となく北部には来ていたのに、(東海岸は3回目とはいえ)俺は車を運転し高速道路を見つめ続けていただ けなのか・・・・この美しさもしらずに居た自分を大袈裟ではなく(俺はこの美しさもしらずに60年生きてきたのだ。も うすこしで『それ』もしらずに死ぬところだった)と、恥じ入る気持ちが起こったのである。 海を見に来て山の尊さに も気付かされた。 不思議な体験であった。

 午後4時20分、予定通り県民広場前到着。その日の日程を終了した。


附録 研鑚シリーズ  そして 『二見情話』 の事

 ※ ここは我が家近くの安谷川坂(アダニガービラ)下方にある玉那覇味噌醤油の玄関と正門である。広大な屋敷に味 噌醤油工場(赤瓦)と現在の当主、玉那覇有紀氏の(株)有建築設計事務所と住宅がある(同期の崎濱君に請われて描く 。)

 ↑その道向かいに(つまり僕がスケッチをして立っていた所)に、『二見情話』を作詞・作曲をした照屋朝敏(てるや ちょうびん)さんの居宅があった。(ご子息の照屋弘さんは、城西小・首里中の同級である。)
『二見情話』ここをクリック

二見の海岸

1945年、摩文仁(まぶに)で捕虜となり、二見の収容所(人口は5000人にもなった)で村長にもなった照屋朝敏さんが、 故郷首里への帰還が見え始めた頃、お世話になった二見の村人や、運命を供にしてきた人々に対して「命からなる感謝の 念と惜別の思いを込めて『二見情話』を創った」と歌碑には記されている。

 なにげなく聞くと男女の掛け合いで歌われているので、ラブソングの様に聞こえるが、その由来を聞いて、その歌詞を 噛み締めて聴くと、「二見の村人」を「女性」に見立ててその愛おしさと、切々たる惜別の情を詠い上げた歌だと知った 時、『二見情話』のメロディーと歌詞が腹の奥底に響きわたる。

詳しくはここをクリック(QAB朝日放送 報道部)
特集 歌に込められた感謝の心『二見情話』


最後までお読みくださりありがとうございました。今回は労作でありました。思い出との巡りあいもあり、戦後の沖縄 の歴史空間をさまよう旅人でもありました。 今日はこれでお~しまい。


北へ向け上昇をするジェット機のテールランプに秋を見つける
-夜明け前の屋上にてー

※ ウチの屋上からは、慶良間の島々や晴れた日には粟国島も見える。4月頃からか風上の
南に向けて嘉手納ラプコンの下をくぐって300Mの高さから那覇空港へ降りてくる飛行機
を目にするが、9月の末頃からは風上の北に向けて飛び立つ飛行機を見る。 H26.10.23


※クリックすると大きな画像でご覧いただけます。

沖縄タイムス10月22日

 ミルクウンケー(琉球語 うちなーぐち)直訳すれば「弥勒様のお迎え」とすればいいのだろうか?今年は8月17日(日)午 後4時30分、赤田首里殿内(アカタスンドゥンチ)跡の赤田クラブから弥勒様御一行がお出ましになる、僕もバイクに飛び乗 り駆けつけた。「ミルクウンケー」については『沖縄タイムス大百科』から以下転載する。

 弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化生といわれる中国唐代の禅僧、布袋和尚(ほていおしょう)が、七福神の一つとして京都の 祭礼の行列〈風流〉に登場したのは室町時代といわれる。
 首里では350年程前、石川門中の祖、求道 〈ぐどう〉長老により、赤田首里殿内に弥勒面が祀られ、7月14日に 泰安所を開き、16日に門中を中心に道ジュネー(行列)があった。赤田マチグチ(赤田市場口、今のウフカクジャー交差点 から南に100メートル足らずの路肩一帯は赤田市の跡で沖縄戦まで、食肉、豆腐、野菜、雑穀など、主として食料品の 相対売り市場であった。←久手堅憲夫著『首里の地名』より)突き当たり右に直角に曲がるあたりに舞台を設け、その中央 に面や胴、衣装一式を安置し、まわりには弥勒御愛子(ミルクウミングヮ、ミルクングヮ)が並び大香炉に香を焚き、東に 向かって(←ここ重要)世界風
ユガフ、豊作、健康を祈願した後、祭主の本家、大石川(ウフイシチャー、首里石川の宗家)の家長が面と作り物の胴をつ け、ドゥジン・袴をつけ胸をはだけて大団扇(うちわ)で豊年を招き寄せながら、舞台をしずしずと一周する。

 弥勒面は戦災で焼失したが、平成6年に復元された。 行列は高張提灯一対を持ち、先頭に警護役、弥勒、路次楽隊(ろ じがくたい)、ミルクングヮ、赤田の村人の順に、首里殿内跡の赤田クラブを出発して、弥勒節を歌い、且つ奏でながら赤 田マチグチに向かう。(赤田市のない今では、赤田クラブの庭に舞台を設え、赤田クラブを出て赤田町の外周を1時間ほど かけて、マチマーイ(街廻り)をした後、クラブの舞台でのウトゥイムチとなる。  転載ここまで。( )の解説は筆者。


 

 通り沿いには大人に混じって小さな子を抱いた人や、ベビーカーの赤ちゃんが詰めかけ弥勒の団扇の洗礼を待ち受けて いた。2~3歳くらいの子等は弥勒様の大きな顔にビックリして泣き出したり、逃げだす子もいて、見ていて楽しい。今 回見ていて、「時代だよなぁ~」と思ったのは、ペットの犬や猫を抱いて待ち受ける人達がいたことだ。でも心優しい吾 ら弥勒加那志(ミルクガナシー〈ガナシーは尊称〉は人畜の分け隔てなく、その福の風を送るのでした。

 ミルクのゆったりとした行列が移動するにつれて、笑顔や歓声の波が移って行く、それがやがて赤田町全体を包み込ん でいく・・・・・極楽浄土の風が吹いているんだ!この光景を見ながら僕は例によって「俺は今、天の御国にいる!」と 呟いたのだった。


ミルクングヮと チャンチャンと ピーラルラー

 

 ミルクングヮはンカジバタ(百足旗)ムカデの足のようなヒラヒラの付いた三角旗を持っている。保育園児から小学校中 学年(3~4年生)の児童からなる。僕のオヤジも2回でたと言っていた。(左写真)路次楽隊の端のメガネをかけた女子中 学生が持っているのが「チャンチャン」中華シンバルと名付けておく。 (写真右) 主旋律を奏でるピーラルラー(確かに そのような音色がするが、チャンチャンといい、このピーラルラーといい、琉球の先人達の音色をそのままに、その楽器 の名称にするセンスには笑っちゃうのだ)ピーラルラーはチャルメラともいうらしい。思わずインスタントラーメンの外装 に描かれた屋台のオジサンを思い出した。「夜鳴きソバ屋」のない沖縄でも、あの「ソラシーラソ・ソラシラソラー」の 旋律を思い出す。 チャルメラとあの旋律については面白いので調べて『番外編』を後付けする。平成6年の「ミルクの復 元」に際し、「路次楽」を掘り起こし、路次楽隊を編成・育成し現在も活動されている、首里山川の阿波連本流啓扇会の 阿波連本勇氏の功績は特筆すべきだと思う。

 

ウトゥイムチ

  赤田町を一周して赤田クラブに帰ってくると、クラブの庭に設えたバンクと呼ばれるステージでのウトゥイムチ(ミル ク様への お・も・て・な・し タイムです)歌や踊り、空手の演武などで、ミルク様と下界の衆生との年に一度の邂逅( かいこう)を供に歓び、その幸せを皆で分かち合うのです。直会(なおらい)、沖縄でいうウサンデーです。喜びも悲しみも 、そして食べ物も供に分かち合い戴く、そしてその歓びを確認していく事はとても大切な事です・・・・ここをクリック


弥勒菩薩と布袋さん

 

 今回、友人の一人と「赤田のミルクウンケー」の話しをしている中、「あれは、弥勒菩薩ではなく、布袋さんだぜ!」 と意見が一致した。10歳を過ぎた頃から(もの心の付いた頃)から、ミルクの話は父から何度となく聴かされてきたが、布 袋だの弥勒だのという話題になった事は無く石川門中でも「肥満体のジーチャンイコール 「ミルク様」と言う考えが固 定化されているのだと思う。(ミルク様悪口じゃないのですゴメンナサイ!) とても新鮮な気付きであった。

 弥勒菩薩といえば、京都広隆寺の半跏思惟像(はんかしいぞう)が有名である。(写真左、郵便切手にもなった)。修学旅 行で半跏思惟像に初めて出会った時は、その美しさ、静けさに、しばし、動くのもためらわれた記憶がある。それにして も大きなお腹で明るく、豪放磊落な熱血漢、たくさんの子供たちを引き連れて旅をしていた布袋さんと、慈愛に満ちて思 慮深そうな弥勒菩薩ではイメージのギャップは甚だしい。

 そこで、この謎を解明しようと弥勒菩薩と布袋さんとの関係をネットで調べてみた。
 インドで生まれ、中国を経て日本に伝来した仏教は、その時代や地域と複雑に絡み合い、変化し、日本の神仏習合まで 併せると、とても僕のような凡人には他人に説明などできないと思い知った。そこで、おもいきりハショリ、平ベッタク 云えば。弥勒菩薩が一般の衆生を救済する時には垂迹して(本地垂迹説の垂迹)布袋さんの姿を借りて人間世界に現れる 化生としての布袋さん・・・というところに辿りついた。布袋和尚は800年代後半に生まれ、916年に没した実在の 禅僧である。(神とキリストの関係に少し似ている。)
 弥勒菩薩が七福神の一人となった今、そのご利益は、夢を育て、人格を磨き、円満な家庭を築いて、金運を招福すると いうことで、慈恵(いつくしみ)と和合の神様、予知と金運の神様として信仰されているようである。
 そういえば、七福神のなかの紅一点、弁財天も龍潭の東に、天女橋とともに弁財天堂として県民に親しまれている。

ミルク石川の話(吾等はミルク石川と呼ばれ350年程まえ勝 連南風原から来た)

  

~~~~~キャプションにかえて~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
[左]の写真は、昭和50年作成された系図、[中]は系図作成を発起し、お一人で1年かけて東奔 西走した石川 松翁肖像 、[右]は巻末の奥付け、編集責任者は作家の石川文一氏(戦場カメラマン石川文洋氏の父君(分家饅頭屋石川)、印刷製本は 「みどり印刷」印刷を生業にしていたので石川逢正も委員の末尾にくわえられた。(分家 ゴーグチ石川)
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 350年程前、16世紀(康煕コウキ年間)一人の少年が勝連南風原から首里円覚寺の小坊主として首里に来る、長じて求 道長老(ぐどうちょうろう)と呼ばれた(石川門中では親しみをこめて勝連長老(かっちんちょうろう)とも呼ぶ。妻帯できな い僧の身ゆえ、勝連から弟を呼び寄せ彼の男児を養子として、求道は首里石川の祖となった。
 求道は「上の毛」周辺の寺屋敷にあった「白蓮院」「青蓮院」など・・・寺の特定はできないがその住職であったので 、死後その寺に墓はあった。その墓は「長老御墓チョーロウウハカ」と呼び、石川家のカミウシーミーは沖縄戦までその 墓で行われた。
 大寺(ウフディラ)とも呼ばれた円覚寺は尚王家の私寺となっているが、その住職は首里の禅寺の輪番制であったと聴い ているので円覚寺の住職も務めたであろう。

 その求道長老が、首里殿内から、たいこく(大国?)に派遣された。大国で皇帝に会い、琉球の教育、信仰の問題を語っ た。 そこで皇帝は「釈迦」 「孔子」 「弥勒」の掛け軸から一つを選択するように話された。そこで長老は平和を祈 願する「弥勒」の掛け軸を戴き持ち帰った・・・(オリジナルは掛け軸)。
 その弥勒の掛け軸はとても価値が高いもので在った為、首里王府に召し上げられ、その際、レプリカとして、今に伝わ る弥勒の面と胴、チジン・袴、杖、唐靴など一式が王府から下賜された。(勿論、そのオリジナルは戦災で焼失、現在のも のは平成6年の復元のとき作成)それを首里殿内に泰安し、石川門中は弥勒を信仰、その信徒として大石川が「ミルクウン ケー」の行事を執り行っていた。

※首里真和志町の渡嘉敷一門には観音信仰があり、その子女は他家に嫁して後も家族に強いる事無く小さな観音像を大切 に祀っていたと聴いている。また、辻の遊郭でも裏庭には祠を設け弥勒を祀る習慣があったとも聴く、この様に琉球では 門中やギルドのような枠組みで仏教が伝えられて行ったのかもしれないと思った。

石川のミルクはどんな経緯で赤田村全体のミルク様になったのか ?

 年代と病名は定かではないが、江戸幕末期にコレラか天然痘の猛威が琉球から九州、西日本一帯を襲ったそうである。 その際、石川一門の人々は病気に罹患しにくく、死者もでなかった。(もしくは、圧倒的に数が少なかった)それを見て、 これは弥勒信仰の賜物であろうという評判が興り、赤田の村人から大石川に「どうか石川だけの弥勒ではなく、赤田村全 体の弥勒様にして欲しい」という要望がよせられた。当時、経済的に逼迫していてミルクウンケーの行事を支えるのに四 苦八苦していた(あるいは、沖縄社会全体がそうであったのかも知れない)そこで「渡りに舟と」合議の末その要望に応諾 したそうである。
   ※石川の人々のDNAには繁殖力が強く、免疫力の高い要素があるのかもしれない。

 男系組織の氏族の門中制度にあっても、石川の子女達は他家に嫁し、また他家から嫁を迎える・・・・ そのような形で縁者は増えていく。首里三箇に大石川がポツンとあったわけではなく、多くの人々に守られ門中制度も存 続してきたのだろうと想うのである。石川ミルク物語を想うとき強く実感する。

 今回は、少し長くなったがネットで収集した那覇市の資料室がまとめた資料と、石川門中に伝わる伝承をつき合わせ、 整合性を高め、少しタイムスパンを拡げたもので、資料性も高い良いものが出来たと思う。
また今回は、僕の時代でやっておくべき『僕の仕事』だとも考えた。

  

~~~番外編 チャルメラそしてあの旋律~~~~~~~~~ ~~


朝鮮通信使

※ チャルメラ
  チャルメラとは、オーボエと同じ2枚リードの木管楽器。チャルメルともいうササン朝ペルシャの軍楽隊が使用した楽 器が起源とされる。後にスペインやポルトガルに伝えられヨーロッパに普及した。フランスで室内楽用楽器として改良が 加えられオーボエの誕生に繋がった。
  ラーメン屋の屋台引きが客寄せに使ったのは「皆さんが待ちに待っていたものが来たよ!」という合図であった。
※ チャルメラのあの旋律は朝鮮通信使の楽隊の演奏
  ドレミレド・ドレミレドラ(ソラシラソ・ソラシラソラも可)は朝鮮通信使が対馬に渡り、瀬戸内海を経由して大阪に 上陸、中仙道から東海道を江戸まで往復する際先頭の30人程の楽師達の奏でる旋律であった。
  彼らの一行は「正使」「副使」「書記」「通訳」「書家」「画家」「医者」「僧侶」など合わせて500名ほど、日本か らの警護や荷役の人数を合わせると2000人を超える大行列。珍しい衣装や、貢物として連れてきた珍しい動物などを見よ うと、街道は夥しい歓迎の見物人が押し寄せたという。庶民の一番人気は楽隊、次は馬の曲乗り(馬上才)であった。
図の左側にミルクングヮの持っているンカジ旗の元祖のような旗も見える。

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最後までお読み下さりありがとうございました。
9月15日(月)はキャンプ・シュワーブと大浦湾の現地取材に行ってきます!ご期待下さい!
一度は行って、目に脳に焼き付けておかねばならない場所なのです!
「運玉再訪」はその次になります。

還暦の少年夏を生きている

H.26.9.5

 台風8号が沖縄を襲った7月8日(火)に7月の中扉の絵を描き終えた。続いて、翌水曜日も、幼、小、中、高校は臨時 休校となった。2月から7月まで6枚の作品(?)が出来たので今日は『③連絡帳ギャラリー』の製作作業を行った。ドラ マチックな事件・事故の多い6月だった・・・・・・・。

 15センチ×11.5センチの空間に、その時々の想いを水彩画と短歌(供に我流)を作成する事は、僕の生活の中の良いアク セントになっている。「連絡帳」とは供に暮す奏(かなで、3歳7ヶ月)の首里大名町の若杉保育園の連絡帳で,それへの毎 日の記入は僕の役目である。


〈若杉生活発表会を終えて・・・〉
会すんで母の土産は晩白柚(ばんぺいゆ)
                 「素敵だったよ お尻フリフリ」


※晩白柚(ばんぺいゆ)
 晩白柚は、柑橘類のひとつでザボンの一品種である。名前は、晩(晩生)・白(果肉が白っぽい)・柚(中国語で丸い柑橘と いう意味)に由来する。ザボン類は柑橘類の中でも果実が巨大で皮が厚い、晩白柚 は特にこれが著しく、直径25センチメートルになるものも珍らしくない。(BY WIKI.)

〈3月6日、ジャガイモほり〉
アンデスの山より出(イデ)しジャガイモが
         コロリ転(コロ)んで若杉の子へ

※ジャガイモの原産地は南米アンデス山中、チチカカ湖畔


〈4月バカ〉
エイプリルフールのネタを捻(ひね)り出す
      四月一日(シガツイッピ)は気ぜわしき朝


 年度初めの朝は、なんとなく気が引き締まる(忙しくても暇でも)でも、そんな時にも妻や子や孫らに、気の利いたジョ ークをカマスのは、愉快だし男のマナーでもあろう。 「(エーッ、それってどうせオヤジギャグになるんだろう?」だっ て?そんなの気にしないよ! 時には面白おかしく生きる事も大切なのさ!
 (沖縄戦初期、慶良間に続き本島の西海岸、北谷・嘉手納に上陸したのも1945年のこの日だったと記憶する。 X デーも四月バカであって欲しかった。)


『春の唄』 野口雨情 詞 草川 信 曲  岩崎宏美 唱 ここをクリック

この歌は僕の四月の愛唱歌で曲も詞もいい。四月は、園への行き帰りの車中で毎日、アカペラで「魅惑のテナー」を聴か される奏は、きっと幸せ・・・・なの・・・だろう。 ウン。
でも魅惑→迷惑へと変化するってこともあるし・・・マアイイカ。


昼過ぎて まだ降りしぶく
五月雨に草木虫らの歓び想う

※5月5日、正午、気象台は沖縄地方の梅雨入りを発表。石垣で98ミリの雨。
「保育園でみんなが奏は男っていうよ!?」「元気があるってことさ!心配しないで。」


笊(ざる)に梅 山に盛りたて筆をとる 梅雨明け近き午後の一刻
ザルニ ウメ ヤマニモリタテフデヲトル ツユアケチカキゴゴノヒトトキ
梅の香(か)は部屋いっぱいに拡がりて 夏は近しと愉快になりぬ


〈8号台風の朝に詠む〉
友の死やドラマチックが多すぎる それはさて置き朝めしを喰う

※最近、「それはさて置き・・・」と思えるようになった。歳を重ねたせいだろう。でも、それって「進化」だと思う。 間を置くことで全体像が見えてくる。(ズームアウトの効用) 歳を取るのも「棄てたもんじゃねーな!」と思った。


梅崎晴光さんに馬事文化賞…遅ればせながらの報告

 以前の記事「君はンマハラセーを知っているか?」で紹介した『消えた琉球競馬』の著者、梅崎晴光さんが日本中央競 馬会(JRA)から、2013年度のJRA賞馬事文化賞に選出された。
 梅崎さんは「琉球競馬は美の価値を重んじる琉球の精神性が生み出した。(受賞は)一競馬記者の力でも無ければ、運の 強さからでもない。琉球文化の力が引き出した幸運」「沖縄に少しだけ恩返しができ る」とコメントした。   wwwwwww泣かせるよなぁ~!



 僕は毎日、平良真地(テーラマージ・大名馬場通り)を朝夕と通るのだが、その中央辺りに台座だけの石碑が在るのは知 っていた。石碑は古い物で7~8年前から在り、新設も含め首里の街のあちこちに30~ 40基ほども在ろうかと思われるが、この平良真地の石碑はその設置位置からして、馬場(ンマハラセー)の事が将来は記 録されるのだろうと思って見ていたが、梅崎さんの受賞から1ヶ月程経った2月の後半あたりか、車で通りかかると、件( くだん)の石碑に真新しいビニールシートが掛けられていたのである。「アーッ!」と事の成り行きを直感して停車、確認 すると真新しい文字版が取り付けられていた、とって返してカメラを持参その日のうちに梅崎さんに「吉報メール」を送 信した。  設置主体は那覇市市民文化部歴史博物館とあった。  〈尚、沖縄タイムス出版文化賞も併せて受賞された 。琉球新報からも受賞があった記憶があるが、この記事作成に確認が間に合わなかった事も記しておく。〉


最後までお読み下さり、ありがとうございました。長かった梅雨も明けたかと思うと、台風8号の襲来で季節の移ろいに 自分の気持ちを今ひとつ乗せる事が出来ずにいました。
 ローソクもヒラヤーチーもソーミンタシヤーも無い台風でしたが、これを機会に一つ一つの雑事を丁寧にこなし、大好 きな夏のスタートを切りたいと思っています。この半年を振り返り、第15号をお届けできそうなので気分のケリがつきホ ッとしている処です。

 約20年前に(40歳前後の頃)首里の東にある運玉森が山火事で焼けてしまいました。消火作業を見つめ「かわいそうにな ~」と思い、次に「不憫に思うぐらいなら木を植えればいいじゃーないか!」と自分の心に逆に『火』をつけ、友人達に 呼びかけて「運玉クラブ」というものを皆でつくり、5年計画で焼けた森に1200本の木の苗を植えました。次号では20年振 りに運玉森を訪ね写真を撮り、当時の記録写真と併せて、自分の20年も振り返ってみたいと思います。運玉クラブOB2人と 供に「運玉再訪」が楽しみです。
 あの頃、一緒に森を駆けていた少年野球の男の子や、ガールスカウトの少女達もいまでは陽気なパパやママになってい ることでしょう・・・・・。次号もご期待下さい!  今日はこれでお~しまい。
  [運玉森=ウンタマモリ=沖縄語でウンタマムイ、160M程の美しい独立丘、西原富士とも呼ばれ る〕

八号は夏の扉(とびら)を開きけり

H.26.7.14

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