みどり風通信│那覇市首里にある印刷会社「みどり印刷」

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みどり風通信
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 「ゆく年くる年」とNHKの番組タイトル風に言うとカッコイイが要するに、年末の雑事のドタバタで「年末年始合併 号」となった次第です。
 12月23日は、『天皇誕生日』今上陛下の生誕を祝した訳ではないが、沖縄市民会館で第42回の『メサイア演奏会』が開 催された。僕にとっては5回目となったので、メサイアやヘンデルの事を書いてみたくなった。僕にとって暮れの恒例 『Messiah』は競泳フリー100mに例ればゴール前20mをノンブレスで来てラスト5メートルのプール底面に見える白線 のようなものです。



〈ヘンデルの誕生〉

 1685年、ドイツは2人の類まれな大作曲家を生んだ。
 一人はヨハン・セバスチャン・バッハであり、もう一人は「メサイア」の作曲者のゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデ ルである。  (後にイギリスに帰化してジョージ・フレデリック・ヘンデル)当時のドイツは「30年戦争」で深刻な打 撃を受け、政治的には300の領邦国家に分かれている不安定な状況にあった。

ドイツのハレでヘンデルは医者の父と牧師の娘である母の間に生まれる。ヘンデルは幼い頃から既に音楽に対して異常な までの興味を示していたが、彼の父は我が子が生活の保障の無い芸術家になる事を心配し、彼に法律家となるための勉強 をさせ、音楽に触れる事を禁じた。しかし、いくら禁じても彼は音楽に対する情熱を失うことはなかった。

 ヘンデルは12歳の頃、父親を亡くしたが、その後も法律の勉強を続け17歳でハレ大学に入学する。しかし彼は大学の大 聖堂でオルガン奏者として活躍し、入学して一年ほど経った頃、大学生活と故郷を後にして、本格的に音楽活動を始める 為に自由都市ハンブルグへと旅立つ。

 ヘンデルはハンブルグをはじめ、イタリアのフィレンツェ、ナポリなど各地を遍歴し、一年と同じ所には居なかった。 彼はこの時期多くの人々と交流を持ち、多くの音楽との出逢いは、彼自身の音楽に大きな影響を与えた。特にオペラ発祥 の地イタリアではオペラ作曲に取り組み、教会音楽なども作曲し、イタリアの音楽様式を十分に身につけた。25歳の時、 新天地イギリスロンドンに移住し、その人脈を大いに活用して自由な作曲生活を送った。



〈メサイア〉

 1741年の夏、チャールズ・ジェネンスという資産家で当時高名な聖書研究家が聖書の有名な詩句から語句を厳選してヘ ンデルに作曲を依頼した。ジェネンスは当初2ヶ年程かけて、(じっくりと時間をかけて)『大作』を作って欲しいと期 待したが、彼の意に反してヘンデルは24日程度で50曲近くの一種の組曲風に仕上げた。 (曲や構想のストックも相当数 あったであろう)初演は1743年4月13日、アイルランド・ダブリン。

 『メサイア』は合唱曲あり、ソロあり、二重唱あり、語るような曲(レチタチーボ)や歌い上げる曲(アリア)と、オ ペラの手法を取り入れて非常に多彩に作られている。ヘンデルがドイツ・イタリア・イギリスという異なる三つの文化圏 で生活し、音楽を学んだ成果が遺憾無く発揮された作品ともいえる。 (異文化体験の妙味なのだろう。)

 ロンドンでの初演当時「たとえ神を賛美する内容とはいえ『劇場』で行うような『娯楽』作品に『救世主(メサイア) 』という名をつけ、宗教的な内容を演奏することは冒涜である」と言われ、これまでの宗教音楽のように中世の重々しく 単調なものとは大きく異なり、かなり派手で、エンターテイメント色の強い作品にバッシングも寄せられたようだが、「 いいものはいい」と結局受け容れられ大ヒットとなった。
 ヘンデルとジェネンスや興行主、劇場が多大な興行収入を得た事は説明を要しない。


〈ハリロヤと歌うHallelujah〉

約2時間30分という長い演奏時間の「メサイア」の中でも「Hallelujah」は最も人気があり、代表的な楽曲である。今で は中学校の合唱コンクールや卒業式で歌われる事も多い。
 1743年のロンドン初演の時、時のイギリス国王ジョージ2世はその美しい旋律についウトウトしていたが、NO44のハ レルヤの大音響に不覚にも脊髄反射を起こしてしまいスクット立上がるや両手まで打ち付けてしまったものだから、それ を見た全聴衆もそれに倣い立ち上がり拍手・・・・これが後のスタンディングオベーションになったと言われている。( ウ~ソデ~ス)

 僕のいる「テナー パート」は高音でハレルヤハレルヤハレルヤと息つくヒマなく、矢継ぎ早に歌う箇所がある。ネッ トの誰かのサイトで「ハレルヤをハリロヤと唄ったほうが唄い易い」と書いてあるのを見て練習の時試してみたらビック リする程Good!なのである。「HA-」と縦に開けた口形(コウケイ正確には口腔形というべきか)口の中の大きな容積 を保ったままで舌を使ってRI・RO・YAと続けるのである。その方が響きもあるし、日本語の「は・れ・る・や」で は口形が平べったくなり、呼気の出る割合が多く、息を継ぐ度に少しづつ苦しくなり、「初心者の平泳ぎ」の様になって しまう。ハリロヤはスマートでクールな唱方なのである欧米人のハレルヤコーラスを聴いてみよ!
彼等はHallelujahと発声してるのであり、「ハレルヤ」と唱っているのではない。「ハレルヤ」は単なる日本 語の表記の為の文字でしかなく、どう聞こえるかが大切なのである。

※以上はサイト「くまさんのヘンデル『メサイア』のページ」をベースに、
これまでの僕の得た知見を織り込み作成した。Hallelujah←ここをクリック




焼き茄子に銘酒泡盛暑気払い

冬から春になっても暑気払いが続いてるとクレームが来そうだが・・・「吾には赦せ敷島の道」



還暦の少年夏を生きている



北へ向け上昇をするジェット機のテールランプに秋をみつける



「大根の花」
春の日に咲いている ひそやかな白い花 誰も目を留めないけど 美しく咲いている 
いまは亡い母さんの やさしさによく似てる あの頃はなにも知らず生きていた僕だけど
いまも なお その愛に包まれて 生きている

「大根の花」のオーケストラ版



今年も元気でヨカッタ!  来年も元気でいよう!
そうすれば、どんな事が起こっても 何とでもなる!
・・・・・と思った月曜の朝


「汀良市街地住宅集会場」これは後に「研鑽シリーズ」になり崎濱くんの年賀状へと進化する


番外編 浦添市経塚(きょうずか)のイルミネーション
クリスマスイブの夜、浦添市経塚に行きました。
(浦添市の南の端が経塚で、那覇の北端が首里でお互いに接している隣町です。)



ここをクリック←「浦添 市経塚のイルミネーションが本気すぎる」のページにジャンプします。


12月24日はクリスマスイブ、25日はクリスマス本チャン、どれが本当のクリスマス?(パーティーはどっちの方が本物な んだ?)と思った方は多いと思う。キリスト教に先立つユダヤ暦、ローマ帝国の暦では一日の境を日没としているので、 24日の日没から25日のクリスマスは始まるのです。



最後までお読みくださり有難うございます。今年もよろしくお願いします。

年玉をならべて置くや枕元 子規 H27.1.2

 正式名称は 沖縄「建白書」を実現し未来を拓く島ぐるみ会議 と呼ばれる。その事務局が主催して毎週月曜日の朝10 時からバス3台を借り切り、先着順で、代金は1000円。11時過ぎに辺野古漁港着、カヌー隊の出発を激励し、「へのこテン ト村」の現地の人達との交流、そして持参した弁当で昼食をとり、キャンプシュワーブ前の座り込みに合流し集会を持ち 、3時30分に現地を出発し、4時30分に出発点の県庁前県民広場前に帰ってくるというツアーの情報を得て早速友人4人と供 に参加した。
 今回はそのレポートである。
 予定した9月15日は(月)は「敬老の日」の公休日。「公休日なので、普段仕事をしている人達も参加し多人数になるの では?」とか「こういう催しはリタイアしたシニアが多いので、彼らは当日〈敬老会〉に出席していて案外少ないかも・ ・・」いろいろな考えが錯綜する中で「とにかく早めに到着すれば間違いない!」という意見に落ち着いて、朝8時30分、 みどり印刷前集合。モノレール儀保駅から出発に決定した。
 県民広場とはパレット久茂地向かいの角地の広場で9時10分に到着し、先着は4~5人で先ずは確実にバスに乗れると 安堵した。


XXXXXXXXXXXXXX辺野古・キャンプシュワーブ鳥瞰写真 XXXXXXXXXXXXXXXXXXX

 中央手前の護岸に囲まれているのが辺野古漁港、中央の菱形の白い部分がキャンプシュワーブの兵舎群、北東から南西 に国道329号が横切っていて、北西部に大きく広がる山林部には訓練場や弾薬庫がある。その左下の集落が辺野古。キャン プシュワーブの向こうに広がるのが大浦湾(最深部40~50M)大浦湾の付け根、写真の左奥に沖縄民謡の代表的抒情歌『二 見情話(ふたみじょうわ)』の生まれた二見の集落がある。「二見情話」については、あまり知られていない「物語」が ある。最終部の附録に外付けする。

   10時出発

 県庁前広場出発。壷川→古波蔵→国場→一日橋交差点を左折して北上、那覇インターから沖縄自動車道を一路名護市辺 野古を目指した。
 今年還暦を迎えた僕だが、本島北部の東海岸は今回で3回目ということで何処をどう通ったのかは説明できない。陽光ま ぶしく、進行方向左手の金武(きん)や恩納(おんな)の山々の稜線が何と優美なのだろう!と溜息をついた。
 車中では、「島ぐるみ会議」のスタッフや各車両に割り当てられた講師による辺野古基地建設の経緯や現在の作業の進 捗状況が詳しく説明され、現場到着までの1時間余はまたたく間であった。

   辺野古漁港到着

     辺野古漁港

 バスは先ず辺野古漁港に着いた。漁港の側の浜辺には当日の海上からの監視活動に当たるカヌー隊(当日は12艇)と、 漁港脇にあるテント村で泊まり込んでの活動を続ける現地の人々、100人余がすでに集結していた。
 吾ら那覇からの応援組150人の到着が拡声器から告げられると、大きな拍手と歓声が湧き起こった。砂を踏みしめて高ぶ る気持ちを久し振りに感じながら、彼らの集団の輪に加わった。

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 思えば40数年前、祖国復帰の前年の夏、昭和46年(高2の頃)吾ら首里高校は全校生徒と教職員がバスをチャーターし て、当時の琉球列島高等弁務官ランパート陸軍中将のいる浦添キャンプキンザーにある米国軍政府庁舎に向け、当時の1号 線(現国道58号)を挟んでシュプレヒコールの拳を挙げた事を想いだした。僕にとってその時以来の直接政治行動であっ た。
 住民の分断を常套手段とする植民地政策が当時あり、また現在まで続いているのだ。何たることだ!

沖縄は日本ではないのか!  日本はアメリカの植民地か!  日本は本当に法治国家か?

米軍政府庁舎、右下は1号線そしてランパート中将


※ 高等弁務官は、アメリカ大統領の承認を得て、国防長官が現役アメリカ陸軍将官から任命した。高等弁務官の権限は強 大で、しばしば琉球政府の施策に介入したが、逆にそれが沖縄住民の反発を買い、復帰運動は激化していった。        By Wiki.

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 二つのラウドスピーカーを足元に置いて、連日現場を支えている沖縄平和運動センター議長の山城博治さんのダイナミ ックな演説を聞きながら「そうだ!その通りだ!」と頭の中はメサイアNO.53『 WORTY IS THE  LAMB  THAT WAS   SLAIN』のアーメンコーラス部分の旋律がフーガの嵐となって鳴り響いていた。(アーメンとは「然り、その通りの意 」)
 彼(山城さん)は、当日のカヌー隊に促して、一人一人が自己紹介を行った。12名中、3分の1程が地元沖縄の人、男女 比は半々、他は本土各地からの参加、その語り口と内容には「よそ者のセミプロ的政治活動家」という風情は微塵も感じ られなかった。むしろ地味で極普通の人達で誰に命じられた訳でもなく自分と向き合い、辺野古の問題を自分の問題とし てとらえ、自分で決めて沖縄辺野古の行動へと身を挺してきた、どちらかといえば繊細な感性を感じさせる人々であった 。
 その様な事も有り「現場に来て本物に出会い五感で感じ取る事の大切さを知った」自分にとって人生の大きな教 訓ともなった。

   キャンプシュワーブゲート前テント村到着

 三々五々、食事の後テント村の住民と語り合う者、木陰に佇む等、思い思いに過ごした後、1時にバスでキャンプシュ ワーブゲート前に移動した。
 キャンプシュワーブは二つの扇子(せんす)を広げて、その要(かなめ)部分でつなげた形をしていて下の三角形が海 に面した兵舎などの施設群、上の三角形森林部に訓練場や弾薬庫がある。その要の繋ぎ部分に国道329号が北東から南 西へと横断していてその結節部にゲート(基地正門)はある。
 ゲート前にはアルソック(総合警備保障)のガードマンが30人ほど二列横隊で並び、県警は(その日、特別な行動が 予定されていないせいか)1台の小型マイクロバスが在るだけであった。

 すでに150人余の人達が朝から座り込み、それに吾々の150人余の1個中隊が加わった。例によって「那覇からの 応援が到着しました」と放送されると、歓声と拍手、指笛の歓喜の嵐の中、テント村の住民となり集会となった。歌を唄 いシュプレヒコールの怒りの拳を天に突き上げた。久し振りに『沖縄を返せ!』
を唄った時にはなつかしくもあり、照れくさくもありで笑ってしまった。  固き土を破りて~ 民族のぉ~♪

僕のプラカード 横幅1メートル ユクシ→嘘いつわり フシガリマセン→「やってら んねー」の語感

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山城博治(やましろ ひろじ)
1952年沖縄生まれ。沖縄平和運動センター事務局長。法政大学社会
学部卒業。1982年に沖縄県庁に入庁。駐留軍従業員対策事業・不発弾対策事業・税務などを担当した後、2004年より現職 。辺野古新基地建設、東村高江のヘリパット建設反対運動など多くの平和・市民団体と連携、県内外に幅広いネットワー クを持つ。沖縄平和運動の象徴的的存在。
(目力〈めじから〉があり、行動力があり、声がデカく、ウーマク〈腕白者〉
沖縄人(ウチナーンチュ)の一典型というタイプで好感を覚えた)


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   帰路にて・・・・・・

 予定の3時30分となり、同じ1号車で帰途についた。左手の辺野古の集落を過ぎて、僕は右側車窓の恩納から金武の山並 みに見入ってしまった。なんとなだらかで優美な山並みなのだろうと息を呑む思いがした。イタジイ(木の名称)が多い せいかライトグリーンの柔らかい曲線は、普段見慣れている南部の大里や玉城の山並みとは大きく異なって『美しく優し い』のである。
 今まで何10回となく北部には来ていたのに、(東海岸は3回目とはいえ)俺は車を運転し高速道路を見つめ続けていただ けなのか・・・・この美しさもしらずに居た自分を大袈裟ではなく(俺はこの美しさもしらずに60年生きてきたのだ。も うすこしで『それ』もしらずに死ぬところだった)と、恥じ入る気持ちが起こったのである。 海を見に来て山の尊さに も気付かされた。 不思議な体験であった。

 午後4時20分、予定通り県民広場前到着。その日の日程を終了した。


附録 研鑚シリーズ  そして 『二見情話』 の事

 ※ ここは我が家近くの安谷川坂(アダニガービラ)下方にある玉那覇味噌醤油の玄関と正門である。広大な屋敷に味 噌醤油工場(赤瓦)と現在の当主、玉那覇有紀氏の(株)有建築設計事務所と住宅がある(同期の崎濱君に請われて描く 。)

 ↑その道向かいに(つまり僕がスケッチをして立っていた所)に、『二見情話』を作詞・作曲をした照屋朝敏(てるや ちょうびん)さんの居宅があった。(ご子息の照屋弘さんは、城西小・首里中の同級である。)
『二見情話』ここをクリック

二見の海岸

1945年、摩文仁(まぶに)で捕虜となり、二見の収容所(人口は5000人にもなった)で村長にもなった照屋朝敏さんが、 故郷首里への帰還が見え始めた頃、お世話になった二見の村人や、運命を供にしてきた人々に対して「命からなる感謝の 念と惜別の思いを込めて『二見情話』を創った」と歌碑には記されている。

 なにげなく聞くと男女の掛け合いで歌われているので、ラブソングの様に聞こえるが、その由来を聞いて、その歌詞を 噛み締めて聴くと、「二見の村人」を「女性」に見立ててその愛おしさと、切々たる惜別の情を詠い上げた歌だと知った 時、『二見情話』のメロディーと歌詞が腹の奥底に響きわたる。

詳しくはここをクリック(QAB朝日放送 報道部)
特集 歌に込められた感謝の心『二見情話』


最後までお読みくださりありがとうございました。今回は労作でありました。思い出との巡りあいもあり、戦後の沖縄 の歴史空間をさまよう旅人でもありました。 今日はこれでお~しまい。


北へ向け上昇をするジェット機のテールランプに秋を見つける
-夜明け前の屋上にてー

※ ウチの屋上からは、慶良間の島々や晴れた日には粟国島も見える。4月頃からか風上の
南に向けて嘉手納ラプコンの下をくぐって300Mの高さから那覇空港へ降りてくる飛行機
を目にするが、9月の末頃からは風上の北に向けて飛び立つ飛行機を見る。 H26.10.23


※クリックすると大きな画像でご覧いただけます。

沖縄タイムス10月22日

 ミルクウンケー(琉球語 うちなーぐち)直訳すれば「弥勒様のお迎え」とすればいいのだろうか?今年は8月17日(日)午 後4時30分、赤田首里殿内(アカタスンドゥンチ)跡の赤田クラブから弥勒様御一行がお出ましになる、僕もバイクに飛び乗 り駆けつけた。「ミルクウンケー」については『沖縄タイムス大百科』から以下転載する。

 弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化生といわれる中国唐代の禅僧、布袋和尚(ほていおしょう)が、七福神の一つとして京都の 祭礼の行列〈風流〉に登場したのは室町時代といわれる。
 首里では350年程前、石川門中の祖、求道 〈ぐどう〉長老により、赤田首里殿内に弥勒面が祀られ、7月14日に 泰安所を開き、16日に門中を中心に道ジュネー(行列)があった。赤田マチグチ(赤田市場口、今のウフカクジャー交差点 から南に100メートル足らずの路肩一帯は赤田市の跡で沖縄戦まで、食肉、豆腐、野菜、雑穀など、主として食料品の 相対売り市場であった。←久手堅憲夫著『首里の地名』より)突き当たり右に直角に曲がるあたりに舞台を設け、その中央 に面や胴、衣装一式を安置し、まわりには弥勒御愛子(ミルクウミングヮ、ミルクングヮ)が並び大香炉に香を焚き、東に 向かって(←ここ重要)世界風
ユガフ、豊作、健康を祈願した後、祭主の本家、大石川(ウフイシチャー、首里石川の宗家)の家長が面と作り物の胴をつ け、ドゥジン・袴をつけ胸をはだけて大団扇(うちわ)で豊年を招き寄せながら、舞台をしずしずと一周する。

 弥勒面は戦災で焼失したが、平成6年に復元された。 行列は高張提灯一対を持ち、先頭に警護役、弥勒、路次楽隊(ろ じがくたい)、ミルクングヮ、赤田の村人の順に、首里殿内跡の赤田クラブを出発して、弥勒節を歌い、且つ奏でながら赤 田マチグチに向かう。(赤田市のない今では、赤田クラブの庭に舞台を設え、赤田クラブを出て赤田町の外周を1時間ほど かけて、マチマーイ(街廻り)をした後、クラブの舞台でのウトゥイムチとなる。  転載ここまで。( )の解説は筆者。


 

 通り沿いには大人に混じって小さな子を抱いた人や、ベビーカーの赤ちゃんが詰めかけ弥勒の団扇の洗礼を待ち受けて いた。2~3歳くらいの子等は弥勒様の大きな顔にビックリして泣き出したり、逃げだす子もいて、見ていて楽しい。今 回見ていて、「時代だよなぁ~」と思ったのは、ペットの犬や猫を抱いて待ち受ける人達がいたことだ。でも心優しい吾 ら弥勒加那志(ミルクガナシー〈ガナシーは尊称〉は人畜の分け隔てなく、その福の風を送るのでした。

 ミルクのゆったりとした行列が移動するにつれて、笑顔や歓声の波が移って行く、それがやがて赤田町全体を包み込ん でいく・・・・・極楽浄土の風が吹いているんだ!この光景を見ながら僕は例によって「俺は今、天の御国にいる!」と 呟いたのだった。


ミルクングヮと チャンチャンと ピーラルラー

 

 ミルクングヮはンカジバタ(百足旗)ムカデの足のようなヒラヒラの付いた三角旗を持っている。保育園児から小学校中 学年(3~4年生)の児童からなる。僕のオヤジも2回でたと言っていた。(左写真)路次楽隊の端のメガネをかけた女子中 学生が持っているのが「チャンチャン」中華シンバルと名付けておく。 (写真右) 主旋律を奏でるピーラルラー(確かに そのような音色がするが、チャンチャンといい、このピーラルラーといい、琉球の先人達の音色をそのままに、その楽器 の名称にするセンスには笑っちゃうのだ)ピーラルラーはチャルメラともいうらしい。思わずインスタントラーメンの外装 に描かれた屋台のオジサンを思い出した。「夜鳴きソバ屋」のない沖縄でも、あの「ソラシーラソ・ソラシラソラー」の 旋律を思い出す。 チャルメラとあの旋律については面白いので調べて『番外編』を後付けする。平成6年の「ミルクの復 元」に際し、「路次楽」を掘り起こし、路次楽隊を編成・育成し現在も活動されている、首里山川の阿波連本流啓扇会の 阿波連本勇氏の功績は特筆すべきだと思う。

 

ウトゥイムチ

  赤田町を一周して赤田クラブに帰ってくると、クラブの庭に設えたバンクと呼ばれるステージでのウトゥイムチ(ミル ク様への お・も・て・な・し タイムです)歌や踊り、空手の演武などで、ミルク様と下界の衆生との年に一度の邂逅( かいこう)を供に歓び、その幸せを皆で分かち合うのです。直会(なおらい)、沖縄でいうウサンデーです。喜びも悲しみも 、そして食べ物も供に分かち合い戴く、そしてその歓びを確認していく事はとても大切な事です・・・・ここをクリック


弥勒菩薩と布袋さん

 

 今回、友人の一人と「赤田のミルクウンケー」の話しをしている中、「あれは、弥勒菩薩ではなく、布袋さんだぜ!」 と意見が一致した。10歳を過ぎた頃から(もの心の付いた頃)から、ミルクの話は父から何度となく聴かされてきたが、布 袋だの弥勒だのという話題になった事は無く石川門中でも「肥満体のジーチャンイコール 「ミルク様」と言う考えが固 定化されているのだと思う。(ミルク様悪口じゃないのですゴメンナサイ!) とても新鮮な気付きであった。

 弥勒菩薩といえば、京都広隆寺の半跏思惟像(はんかしいぞう)が有名である。(写真左、郵便切手にもなった)。修学旅 行で半跏思惟像に初めて出会った時は、その美しさ、静けさに、しばし、動くのもためらわれた記憶がある。それにして も大きなお腹で明るく、豪放磊落な熱血漢、たくさんの子供たちを引き連れて旅をしていた布袋さんと、慈愛に満ちて思 慮深そうな弥勒菩薩ではイメージのギャップは甚だしい。

 そこで、この謎を解明しようと弥勒菩薩と布袋さんとの関係をネットで調べてみた。
 インドで生まれ、中国を経て日本に伝来した仏教は、その時代や地域と複雑に絡み合い、変化し、日本の神仏習合まで 併せると、とても僕のような凡人には他人に説明などできないと思い知った。そこで、おもいきりハショリ、平ベッタク 云えば。弥勒菩薩が一般の衆生を救済する時には垂迹して(本地垂迹説の垂迹)布袋さんの姿を借りて人間世界に現れる 化生としての布袋さん・・・というところに辿りついた。布袋和尚は800年代後半に生まれ、916年に没した実在の 禅僧である。(神とキリストの関係に少し似ている。)
 弥勒菩薩が七福神の一人となった今、そのご利益は、夢を育て、人格を磨き、円満な家庭を築いて、金運を招福すると いうことで、慈恵(いつくしみ)と和合の神様、予知と金運の神様として信仰されているようである。
 そういえば、七福神のなかの紅一点、弁財天も龍潭の東に、天女橋とともに弁財天堂として県民に親しまれている。

ミルク石川の話(吾等はミルク石川と呼ばれ350年程まえ勝 連南風原から来た)

  

~~~~~キャプションにかえて~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
[左]の写真は、昭和50年作成された系図、[中]は系図作成を発起し、お一人で1年かけて東奔 西走した石川 松翁肖像 、[右]は巻末の奥付け、編集責任者は作家の石川文一氏(戦場カメラマン石川文洋氏の父君(分家饅頭屋石川)、印刷製本は 「みどり印刷」印刷を生業にしていたので石川逢正も委員の末尾にくわえられた。(分家 ゴーグチ石川)
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 350年程前、16世紀(康煕コウキ年間)一人の少年が勝連南風原から首里円覚寺の小坊主として首里に来る、長じて求 道長老(ぐどうちょうろう)と呼ばれた(石川門中では親しみをこめて勝連長老(かっちんちょうろう)とも呼ぶ。妻帯できな い僧の身ゆえ、勝連から弟を呼び寄せ彼の男児を養子として、求道は首里石川の祖となった。
 求道は「上の毛」周辺の寺屋敷にあった「白蓮院」「青蓮院」など・・・寺の特定はできないがその住職であったので 、死後その寺に墓はあった。その墓は「長老御墓チョーロウウハカ」と呼び、石川家のカミウシーミーは沖縄戦までその 墓で行われた。
 大寺(ウフディラ)とも呼ばれた円覚寺は尚王家の私寺となっているが、その住職は首里の禅寺の輪番制であったと聴い ているので円覚寺の住職も務めたであろう。

 その求道長老が、首里殿内から、たいこく(大国?)に派遣された。大国で皇帝に会い、琉球の教育、信仰の問題を語っ た。 そこで皇帝は「釈迦」 「孔子」 「弥勒」の掛け軸から一つを選択するように話された。そこで長老は平和を祈 願する「弥勒」の掛け軸を戴き持ち帰った・・・(オリジナルは掛け軸)。
 その弥勒の掛け軸はとても価値が高いもので在った為、首里王府に召し上げられ、その際、レプリカとして、今に伝わ る弥勒の面と胴、チジン・袴、杖、唐靴など一式が王府から下賜された。(勿論、そのオリジナルは戦災で焼失、現在のも のは平成6年の復元のとき作成)それを首里殿内に泰安し、石川門中は弥勒を信仰、その信徒として大石川が「ミルクウン ケー」の行事を執り行っていた。

※首里真和志町の渡嘉敷一門には観音信仰があり、その子女は他家に嫁して後も家族に強いる事無く小さな観音像を大切 に祀っていたと聴いている。また、辻の遊郭でも裏庭には祠を設け弥勒を祀る習慣があったとも聴く、この様に琉球では 門中やギルドのような枠組みで仏教が伝えられて行ったのかもしれないと思った。

石川のミルクはどんな経緯で赤田村全体のミルク様になったのか ?

 年代と病名は定かではないが、江戸幕末期にコレラか天然痘の猛威が琉球から九州、西日本一帯を襲ったそうである。 その際、石川一門の人々は病気に罹患しにくく、死者もでなかった。(もしくは、圧倒的に数が少なかった)それを見て、 これは弥勒信仰の賜物であろうという評判が興り、赤田の村人から大石川に「どうか石川だけの弥勒ではなく、赤田村全 体の弥勒様にして欲しい」という要望がよせられた。当時、経済的に逼迫していてミルクウンケーの行事を支えるのに四 苦八苦していた(あるいは、沖縄社会全体がそうであったのかも知れない)そこで「渡りに舟と」合議の末その要望に応諾 したそうである。
   ※石川の人々のDNAには繁殖力が強く、免疫力の高い要素があるのかもしれない。

 男系組織の氏族の門中制度にあっても、石川の子女達は他家に嫁し、また他家から嫁を迎える・・・・ そのような形で縁者は増えていく。首里三箇に大石川がポツンとあったわけではなく、多くの人々に守られ門中制度も存 続してきたのだろうと想うのである。石川ミルク物語を想うとき強く実感する。

 今回は、少し長くなったがネットで収集した那覇市の資料室がまとめた資料と、石川門中に伝わる伝承をつき合わせ、 整合性を高め、少しタイムスパンを拡げたもので、資料性も高い良いものが出来たと思う。
また今回は、僕の時代でやっておくべき『僕の仕事』だとも考えた。

  

~~~番外編 チャルメラそしてあの旋律~~~~~~~~~ ~~


朝鮮通信使

※ チャルメラ
  チャルメラとは、オーボエと同じ2枚リードの木管楽器。チャルメルともいうササン朝ペルシャの軍楽隊が使用した楽 器が起源とされる。後にスペインやポルトガルに伝えられヨーロッパに普及した。フランスで室内楽用楽器として改良が 加えられオーボエの誕生に繋がった。
  ラーメン屋の屋台引きが客寄せに使ったのは「皆さんが待ちに待っていたものが来たよ!」という合図であった。
※ チャルメラのあの旋律は朝鮮通信使の楽隊の演奏
  ドレミレド・ドレミレドラ(ソラシラソ・ソラシラソラも可)は朝鮮通信使が対馬に渡り、瀬戸内海を経由して大阪に 上陸、中仙道から東海道を江戸まで往復する際先頭の30人程の楽師達の奏でる旋律であった。
  彼らの一行は「正使」「副使」「書記」「通訳」「書家」「画家」「医者」「僧侶」など合わせて500名ほど、日本か らの警護や荷役の人数を合わせると2000人を超える大行列。珍しい衣装や、貢物として連れてきた珍しい動物などを見よ うと、街道は夥しい歓迎の見物人が押し寄せたという。庶民の一番人気は楽隊、次は馬の曲乗り(馬上才)であった。
図の左側にミルクングヮの持っているンカジ旗の元祖のような旗も見える。

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最後までお読み下さりありがとうございました。
9月15日(月)はキャンプ・シュワーブと大浦湾の現地取材に行ってきます!ご期待下さい!
一度は行って、目に脳に焼き付けておかねばならない場所なのです!
「運玉再訪」はその次になります。

還暦の少年夏を生きている

H.26.9.5

 台風8号が沖縄を襲った7月8日(火)に7月の中扉の絵を描き終えた。続いて、翌水曜日も、幼、小、中、高校は臨時 休校となった。2月から7月まで6枚の作品(?)が出来たので今日は『③連絡帳ギャラリー』の製作作業を行った。ドラ マチックな事件・事故の多い6月だった・・・・・・・。

 15センチ×11.5センチの空間に、その時々の想いを水彩画と短歌(供に我流)を作成する事は、僕の生活の中の良いアク セントになっている。「連絡帳」とは供に暮す奏(かなで、3歳7ヶ月)の首里大名町の若杉保育園の連絡帳で,それへの毎 日の記入は僕の役目である。


〈若杉生活発表会を終えて・・・〉
会すんで母の土産は晩白柚(ばんぺいゆ)
                 「素敵だったよ お尻フリフリ」


※晩白柚(ばんぺいゆ)
 晩白柚は、柑橘類のひとつでザボンの一品種である。名前は、晩(晩生)・白(果肉が白っぽい)・柚(中国語で丸い柑橘と いう意味)に由来する。ザボン類は柑橘類の中でも果実が巨大で皮が厚い、晩白柚 は特にこれが著しく、直径25センチメートルになるものも珍らしくない。(BY WIKI.)

〈3月6日、ジャガイモほり〉
アンデスの山より出(イデ)しジャガイモが
         コロリ転(コロ)んで若杉の子へ

※ジャガイモの原産地は南米アンデス山中、チチカカ湖畔


〈4月バカ〉
エイプリルフールのネタを捻(ひね)り出す
      四月一日(シガツイッピ)は気ぜわしき朝


 年度初めの朝は、なんとなく気が引き締まる(忙しくても暇でも)でも、そんな時にも妻や子や孫らに、気の利いたジョ ークをカマスのは、愉快だし男のマナーでもあろう。 「(エーッ、それってどうせオヤジギャグになるんだろう?」だっ て?そんなの気にしないよ! 時には面白おかしく生きる事も大切なのさ!
 (沖縄戦初期、慶良間に続き本島の西海岸、北谷・嘉手納に上陸したのも1945年のこの日だったと記憶する。 X デーも四月バカであって欲しかった。)


『春の唄』 野口雨情 詞 草川 信 曲  岩崎宏美 唱 ここをクリック

この歌は僕の四月の愛唱歌で曲も詞もいい。四月は、園への行き帰りの車中で毎日、アカペラで「魅惑のテナー」を聴か される奏は、きっと幸せ・・・・なの・・・だろう。 ウン。
でも魅惑→迷惑へと変化するってこともあるし・・・マアイイカ。


昼過ぎて まだ降りしぶく
五月雨に草木虫らの歓び想う

※5月5日、正午、気象台は沖縄地方の梅雨入りを発表。石垣で98ミリの雨。
「保育園でみんなが奏は男っていうよ!?」「元気があるってことさ!心配しないで。」


笊(ざる)に梅 山に盛りたて筆をとる 梅雨明け近き午後の一刻
ザルニ ウメ ヤマニモリタテフデヲトル ツユアケチカキゴゴノヒトトキ
梅の香(か)は部屋いっぱいに拡がりて 夏は近しと愉快になりぬ


〈8号台風の朝に詠む〉
友の死やドラマチックが多すぎる それはさて置き朝めしを喰う

※最近、「それはさて置き・・・」と思えるようになった。歳を重ねたせいだろう。でも、それって「進化」だと思う。 間を置くことで全体像が見えてくる。(ズームアウトの効用) 歳を取るのも「棄てたもんじゃねーな!」と思った。


梅崎晴光さんに馬事文化賞…遅ればせながらの報告

 以前の記事「君はンマハラセーを知っているか?」で紹介した『消えた琉球競馬』の著者、梅崎晴光さんが日本中央競 馬会(JRA)から、2013年度のJRA賞馬事文化賞に選出された。
 梅崎さんは「琉球競馬は美の価値を重んじる琉球の精神性が生み出した。(受賞は)一競馬記者の力でも無ければ、運の 強さからでもない。琉球文化の力が引き出した幸運」「沖縄に少しだけ恩返しができ る」とコメントした。   wwwwwww泣かせるよなぁ~!



 僕は毎日、平良真地(テーラマージ・大名馬場通り)を朝夕と通るのだが、その中央辺りに台座だけの石碑が在るのは知 っていた。石碑は古い物で7~8年前から在り、新設も含め首里の街のあちこちに30~ 40基ほども在ろうかと思われるが、この平良真地の石碑はその設置位置からして、馬場(ンマハラセー)の事が将来は記 録されるのだろうと思って見ていたが、梅崎さんの受賞から1ヶ月程経った2月の後半あたりか、車で通りかかると、件( くだん)の石碑に真新しいビニールシートが掛けられていたのである。「アーッ!」と事の成り行きを直感して停車、確認 すると真新しい文字版が取り付けられていた、とって返してカメラを持参その日のうちに梅崎さんに「吉報メール」を送 信した。  設置主体は那覇市市民文化部歴史博物館とあった。  〈尚、沖縄タイムス出版文化賞も併せて受賞された 。琉球新報からも受賞があった記憶があるが、この記事作成に確認が間に合わなかった事も記しておく。〉


最後までお読み下さり、ありがとうございました。長かった梅雨も明けたかと思うと、台風8号の襲来で季節の移ろいに 自分の気持ちを今ひとつ乗せる事が出来ずにいました。
 ローソクもヒラヤーチーもソーミンタシヤーも無い台風でしたが、これを機会に一つ一つの雑事を丁寧にこなし、大好 きな夏のスタートを切りたいと思っています。この半年を振り返り、第15号をお届けできそうなので気分のケリがつきホ ッとしている処です。

 約20年前に(40歳前後の頃)首里の東にある運玉森が山火事で焼けてしまいました。消火作業を見つめ「かわいそうにな ~」と思い、次に「不憫に思うぐらいなら木を植えればいいじゃーないか!」と自分の心に逆に『火』をつけ、友人達に 呼びかけて「運玉クラブ」というものを皆でつくり、5年計画で焼けた森に1200本の木の苗を植えました。次号では20年振 りに運玉森を訪ね写真を撮り、当時の記録写真と併せて、自分の20年も振り返ってみたいと思います。運玉クラブOB2人と 供に「運玉再訪」が楽しみです。
 あの頃、一緒に森を駆けていた少年野球の男の子や、ガールスカウトの少女達もいまでは陽気なパパやママになってい ることでしょう・・・・・。次号もご期待下さい!  今日はこれでお~しまい。
  [運玉森=ウンタマモリ=沖縄語でウンタマムイ、160M程の美しい独立丘、西原富士とも呼ばれ る〕

八号は夏の扉(とびら)を開きけり

H.26.7.14

 今回の記事は、前々回に書いた『野球を愛した至誠の人ー島田叡(戦中最後の沖縄県知事』の続編である。

 昭和20年6月26日、午前零時前、島田知事と荒井警察部長は現在の島守の塔後方にある軍医部壕を出てからの消息が分かっていない。(大塚・元薬剤中尉の回想)そこで島田氏の母校、神戸二中、現在の兵庫高校の同窓会『武陽会(ぶようかい、所在する湊川河原、武陽ヶ原に由来する名称)』では、どうにか遺骨や遺品を持ち帰ることが出来ないかと昨年に続き今年も2月7日(金)~9日(日)までの日程で摩文仁海岸の一帯を探索した。生前の島田氏に最後に会ったとされる機関銃隊の山本初雄氏の証言に沿って場所を推定した。『沖縄の島守』の著者、田村洋三氏も参加された。(武陽会は3日間、沖縄側との合流は土日の2日間)
 武陽会から7名と田村氏、地元沖縄からは島田叡顕彰期成会(会長 嘉数昇明氏) ※(顕彰は「かくれているよいこと」が明らかに現れる、の意)沖縄県高校野球連盟、(財)島守りの会事務局、糸満市摩文仁の地元の有志(平和記念公園の職員でもあった)それに医師1名、看護師2名。総勢20数名に兵庫から読売新聞、時事通信の記者、地元から2紙、テレビ局2社の撮影クルーも同行して行われた。



私は以前から激戦地の摩武仁の海岸の様子を見てみたいと思っていたが、この機会を逃すと、もうチャンスは無いと思い(独りで行けるような場所ではない)顕彰会事務局の仲嘉山さんに無理を言ってお願いし「養秀同窓会」の所属という妙案をもって参加できる事となった。

 2月8日(土)朝9時、探索に先立ち、島守之塔の祭壇には花が手向けられ、3つ勢ぞろいした島田杯が並べられた。参加者全員で、これまでの経緯の報告と、今回の作業の安全を祈り頭を垂れた。

 ここに「探索活動について」という当日配布されたペーパーがある。それを記して今回の活動の目的と様子の説明をしていく。その項目の間にスナップ写真を織り込んで現場の雰囲気を伝えたいと思う。


捜索活動について

1.捜索方法について
  島田知事の最後を見届けた山本初雄元陸軍兵長の証言に在る「海岸から50メートル上方、ダラダラの岩場の下にあって、四つん這いで入れる横穴洞窟」を見つけること。その洞窟と思われる場所を見つけたら、懐中電灯で内部を確認して、壕内を掘って遺骨及び遺留品を確認する。



2.捜索ルート
 島守之塔からワイジー(割れた岩)を通り、マブニの海岸に向かう道(里道)から右側のジャングルへ入 る。ルートは目印のビニールテープ伝いに進むこと。ノロ墓(小休止)を通過して目的地(知祖愛国の塔崖した、前方が捜索地点。

3.捜索上の注意
 捜索地点から離れた場所での捜索活動を行う場合には、複数のメンバーで行動すること。周囲は木が生い茂り見通しが利かず自分の位置が確認できなくなる事が生じるので予め帰り(進入した時のルートが分かる所まで)のルートを確保すること。(確保用のビニールテープを用意しています。)
 又、現場はいたるところ穴の上に枯れ木や枯れ葉が積もっていたり、シダが自生していたり、足場が 悪いので足元を確認しながら歩き、転倒・転落に十分に注意すること。

4.緊急時について
 医師、看護師2名の方が現地まで同行します。緊急時(けが、体調の変化、不安等が生じた場合)にはすみやかに下記、携帯まで連絡ください。



今一度『島田 叡知事』を振り返る

 今回、島田叡の生涯を語る別の文章を発見した。今までに無かった新たなエピソードや、首里から南下して行く時の状景が細やかに時間軸に沿って描かれ、前回の『野球を愛した至誠の人』とは一味異なった人間・島田叡が見事に活写されている。以下は特定営利法人 国際留学生協会の『向学新聞』からの転載である。 『現代日本の源流』より。〈写真は筆者挿入。〉


官選最後の沖縄県知事

[死を覚悟して赴任]
 沖縄県の新知事島田叡が沖縄県那覇市の県庁に着任したのは1945年、1月31日、第二次世界大戦末期であった。沖縄県知事の内命を受けたのは同年1月11日。大阪府の内務部長の職にあった島田は即答した。「私が行かなかったら、誰かが行かなければならんでしょ。私がいきます。」早すぎる返答に知事が驚いた。「3日ほど考えたらどうか。妻子もいることだし。断ってもいいんだぞ」。島田は「これは私が決める事です。」と言い切った。
 沖縄に単身で赴任するにあたり、自決用の青酸カリを携帯していたという。死を覚悟していたのである。内命をうけて以降、実に気丈に振舞っていた島田であったが彼の本心を垣間見た人がいた。沖縄に渡る少し前、日本画家矢野橋村画伯の家を訪ねたときのこと、酒の酔いが回り始め、気持ち良くなった島田が踊り始めた。その時、矢野画伯が何かの拍子に「年老いたお母様のお心を思うと・・・」と言いかけた。すると、島田はその場に座り込んで、ハラハラと畳のうえに涙を落としたという。ほんの束の間のことではあったが、自分の決断が、母や妻子を苦しませることになることに耐えられなかったのであろう。一緒にい た友人が「彼の本心を垣間見た思いがして辛かった」と語っている。
 島田叡は1901年12月25日、開業医五十三郎とタマの長男として神戸に生まれた。神戸二中、三高(現京大教養部)、東京帝大と進んだ島田は、この間ずっと野球の名選手として鳴らしていた。同級生は島田のことを思い出して、「自分の使命、与えられたポジションを守り抜く強い信念。このスポーツマンシップが叡さんのバックボーンだった。」と述べ、こうした精神が島田を作り上げたと語っている。
 内務省に入った島田は、主に警察畑を歩んだが、決してエリートコースではなかった。徳島県保安課長になって以来17年間、実に13回も転任を繰り返し、それも地方周りばかりであった。「愛される警察官になれ」「セクト主義はなくせ」などと強調したため、本省から煙たがれたのである。今では褒められるところだが、時代が違った。しかし、沖縄の厳しい現実に直面した内務省は、責任感と決断力に溢れ、非常時に民心をつかめる知事を必要とした。島田に白羽の矢が立ったのである。



〈在りし日の姫ゆり学徒〉


[沈鬱の中に一縷の光]
 新知事を迎えた県庁の全職員の中で、島田の赴任を一番喜んだのが警察部長の荒井退造だった。島田が赴任するまで、知事が事実上不在の中、責任感の強い荒井は一人で県政を切り盛りし、苦闘していたのである。米軍の沖縄上陸を目前にして政府は、「沖縄に戦火が及ぶ可能性大」と判断して、県民の県外疎開を決定した。この決定を受けて、荒井は疎開を積極的に推進しようとした。その荒井の前に立ち塞がった人物が、あろうことか知事(前任)であった。知事は周辺に疎開反対の言辞を述べたため、荒井は独断専横と非難を浴びることになってしまった。
 新井はこの知事に悩まされ続けた。1944年10月10日早朝、米軍の大空襲が突然沖縄を襲った時のこと。那覇市の90%が灰燼に帰した大惨事の中、すっかり怖じけずいた知事は、寝巻き姿で官舎の防空壕に閉じこもり、そこから出てこようとはしなかった。その時に、県庁に残り一人指揮を執っていたのが荒井だった。以来この知事は出張の名目で沖縄を離れることが多くなり、在任期間の3分の1近く沖縄を留守にした。さらに背後で沖縄脱出を画策し、香川県知事におさまってしまったのである。
 不安と焦燥にあえぐ沖縄にあって、島田の登場は一縷の光となった。県庁職員の一人は、「この知事は自分たちを見捨てない。この人になら最後までついていける。」と感じたという。沈鬱の県庁内が、新知事が着任した途端、この曇りが払拭されたのである。



破壊された首里の街
(中央後方に首里城)


[県民は島田に心酔]
 島民の疎開は緊急を要していた。島田は[疎開緊急計画」をまとめ上げ、那覇や首里など南部の島民を北部の国頭方面への疎開を実行した。島田の秘書官は知事の仕事ぶりを評価して、「行政手腕は鮮やかという他はなかった」と述懐している。警察部長の荒井も肩の荷をおろすことができた。それまで一人で苦しんできたのである。この二人の努力により命を救われた沖縄県民は約20万人にも及んだという。
 島田の姿勢は実に一貫していた。沖縄県民と運命を共にするという決意である。疎開促進のため、激務の合間を縫って住民との接触に努めた。疎開の重要性を説くため、講演会におもむき、講演が済むと民家の実情視察、時には民家で酒盛りが始まることもあった。島田は県民が不憫でならなかったのである。敗戦濃厚の時期にあっても、国策をいささかも疑わない県民の心情がいぢらしく感じた。そんな彼らに少しでも楽しい思いをさせてやりたい。島田の親心がなせる酒盛りだった。空襲でみんなが我先にと、壕に逃げ込むときにでも、島田はいつも最後に入っていたという。知事のそんな気持ちが県民に通じないはずがない。県民は島田を信頼しそして敬愛した。
 4月1日早朝、ついに米軍は沖縄本島に上陸。本島中部に上陸した米軍は南下を開始したため、疎開民の北部への疎開の道は断たれてしまった。島民は、ガマと呼ばれた壕(自然にできた洞窟)への非難を余儀なくされたのである。新壕と呼ばれた避難壕に移り住んだ島田は、百数十人の島民と生活を共にした。壕の拡張、改善作業には知事自ら率先して参加する。知事に差し入れがあれば、それを怪我人や病人に与えてしまう。そんな島田に接したある人は「立派なお侍さんのような方だった」と語り、「後光が差しているように感じた」と言う者もいた。

[島田の死]
 戦局は日を追って悪化。 日本軍はついに首里を放棄し、南部への撤退を決断した。このことは南部の島尻全域が戦場と化することを意味した。そこには15万の県民が逃れていたのである。島田は[住民の犠牲をできるだけ食い止めるには首里での戦闘終息を選ぶべきだ」と強行に申し入れたが、その声は無視された。軍は本土決戦準備の時間稼ぎのため、あくまで抗戦の構えだった。沖縄は日本本土のための捨て石だったのである。
 5月25日、島田は警察部壕を出た。軍と合流するためである。戦場に放り出された県民の被害を最小限に食い止めるため、的確な情報を知る必要があると判断したからである。県庁職員一行百人の南部落ちである。連日の豪雨の中、ぬかるみと苦渋にまみれての退却。雨は無慈悲に降り注ぐ。まさに涙雨であった。道中、島田が見た光景は戦いに追われ南に逃れる県民の悲痛な姿であった。サトウキビを杖にして足を引きずっている老人。泥んこの道を這っている者。島田の顔は今にも泣き出しそうに歪んだ。至る所に散乱する死体には、誰もが不感症になってなっていた。しかし島田は立ち止まっては死体の前で祈りを捧げ、特に子供の死体には心を込めて合掌したという。胸が張り裂ける思いだった。
 真壁村の轟の壕に着いた直後、島田は警察部を含む沖縄県庁の解散を宣言した。米軍の奉仕殲滅作戦を目の当たりにして、部下たちに行動の自由を与えてあげたかったのだ。彼らに生き延びてもらうための苦渋の決断だった。軍司令部のある摩文仁の壕に向かうため、轟の壕を出る時、同行を懇願する職員に「君たちは若い。生きて沖縄の再建のために働きなさい」と言って、受け付けなかった。女性たちには「君たち、女、子供には米軍は手を出さないから、最後は手を挙げて壕を出るんだぞ。決して軍と行動を共にするんじゃないぞ」と言った。犠牲者を一人でも少なくしたい心境だった。



〈九死に一生を得て・・・収容所で始まった学校〉


島田を摩文仁まで送ってきた秘書官らは、「側におらせてください。」と懇願したが、「帰りなさい。これはわたしの命令だ」と厳しい口調ではねつけた。その後、島田はポケットから束ねた札束を取り出して言った。「せめての名残りとしてこれを取っておいてくれ」。彼らが辞退すると「私はもう使うことがないから。今後、自重し自愛するように」と言った。三人は、これで知事との別れになると思い、その場で声を上げて泣いた。

 毎日新聞の支局長が摩文仁の壕に島田を訪ねたときのことである。支局長は「知事は十分に県民のために働かれました。文官なんですから最後は手を挙げて出られてもいいのではないですか。}と言った。島田はキッと顔を上げ言った。「君、一県の知事として僕が生きて帰れると思うかね?沖縄の人がどれだけ死んでいるのか、君も知っているだろう}。そして、自嘲気味に「それにしても、僕くらい県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもないだろうなぁ」と言った。

 島田が摩文二の壕を出たのは6月26日。死に場所を求めての最後の旅立ちだった。壕内で死ぬと迷惑がかかると気遣ってのことだったと思われる。最後まで同行したのは、やはり死を覚悟していた荒井警察部長だった。二人は摩文仁のどこかで自決したと思われる。二人が摩文仁の壕を出た6月26日が、島田叡の命日になっている。享年43歳。

 島田の在任期間は、わずかに5ヶ月足らずであった。しかし、沖縄の最も苦しい時期、沖縄県民と苦難を共にして、県民のために生き、そして散っていったその人生は、短くはあったが、美しい。島田と荒川の殉職の報に接し、内務大臣は、島田に行政史上初の「内務大臣賞詞」と顕功章を贈り、荒井にも顕功章を贈った。そして、「その志、その行動、真に官吏の亀鑑というべし」と称えた。  〈 転載ここまで〉


最後に私の想い・・・


 今回の探索は2月7~9日、あれから2ヶ月の時間が経っている。「早く書いてUPせねば・・・」焦る想いはあったが、探索行動のスナップ写真を散りばめ、その活動の困難さを示しただけでは「少年探偵団の報告」にしかならず、薄っぺらなものになってしまう。「島田叡事跡顕彰期成会」の思いから離れて、なぜこれ程までに私という個人が、無理を言って探索活動に加わっていったのかの説明は必要であろうと思った。
 今回のレポートの最後の筆の収め処というか、何を求めての行動だったのかを考えあぐね、自問・自答したのが、この1ヶ月でもあった。島田知事と荒井警察部長を「美談仕立て」にして祭り上げようとは思わない。それにこれは、そもそも『美談』などではない。二人の内務官僚と県庁職員、そしてなによりも『沖縄県民の苦闘の記録』なのだと想う。


絞られた結論・・・ 『想いの源流』

 2011年、3月11日。東北地方を襲った地震と津波で東北沿岸部は壊滅的な被害を受け、多くの死者・行方不明者が出た。福島第一原子力発電所では6基ある原子炉のうち1号機から3号機の原子炉が壊れ(メルトダウン)、4号機の使用済み燃料プールも破損し、危機的な状態が今も続いている。
 琵琶湖の1.7倍にあたる1000平方キロの面積が現在「非難指示区域」となっていて、強制非難させられた人達、自主避難した人達は15万人におよぶ。
 日本の法律では、1平方メートルあたり4万ベクレルを超えているような物体はどんなものでも放射線管理区域の外側に存在させてはいけないとされてきた。
 もし、その法律を厳密に適用するなら、福島県の東半分と西のかなりの部分、栃木県と群馬県の北半分、宮城県の南部と北部の一部、岩手県南部の一部、茨城県の北部・南部、千葉県の北部、埼玉県と東京の一部は放射線管理区域にしないといけないほどの汚染を受けている。
 本当なら、全部無人地帯にしなければいけないのに、ごく一部だけーといっても琵琶湖の約1.7倍の面積だが、そうした場所で、子どもたちは泥まみれになって遊び、人々は赤ん坊を生み育てている。
 日本政府は「もうしようがないから被爆は我慢しろ、普通の人も年間1ミリシーベルトを超えて被爆してもいいし、1平方メートルあたり4万ベクレルを超えて汚染されている場所にも勝ってに住め」と、人々をそこyに見捨てることにしたのである。

小出裕章 著  『100年後の人々へ』より


 日本はリアリズムを喪失した国家である。
 日本政府(政治家)、行政(霞ヶ関の官僚組織)、原子力産業(財界)、電力会社(地方では超優良企業)検察・裁判所、大手マスコミ、学者・・・この国のエリートは皆グルになって現実を直視しない。
 この2回目の敗戦を私は残る半生を使って、つぶさに観察して行こうと思う。
 去る沖縄戦でも、沖縄は本土決戦の時間稼ぎの捨て石になった。(しかし、一億玉砕など実際には起こり得ないし国民全てを擂り潰すのは最早、戦争とも呼べず、国家の「発狂」であり、本土決戦など軍事官僚によるプロパガンダであり妄想であった。
 その最前線にあって、島田知事と荒井警察部長は一貫して沖縄県民と運命をともにした。



石破幹事長の恫喝に屈し選挙公約を捨てた5人の国会議員


 目を現代沖縄に転ずれば、75%の民意にそむく県知事、選挙公約を破棄する国会議員、民主主義とは「つまるところ多数決」という物差ししか持てない政治エリートに『立憲主義』の本質を見抜く眼力など望むべくもない。弱き者への眼差し無くして何の為の『政治・行政』なのか?70年の時空を超えて摩文仁の海に空にそれを問いたかったのかもしれない・・・・・・。

最後までお読み下さり有難うございます。今回はかなりディープなものになってしまった。後半部では激情に走った部分もあった。まぁ・・・それもよしとしよう。冷静である事のみが男子の美徳ではあるまい。



※「福島」と「沖縄戦」二つに共通するキーワードは『疎開』である。

※今回の捜索では島田知事と想われる遺骨や遺品の発見には至らなかった、現地はこれまでにも数回の遺骨収集がなされ、現地での生存者からの情報でかなり細部に亘る捜索は行われていた。 その際に島田知事の遺骨も収集されたのも知れない、最後を見届けた山本初雄氏もお亡くなりになり、70年の歳月は摩文仁海岸のジャングル全体が墓の様に閉ざされて、他を寄せ付けない妖気すら発していた。


タンポポの黄色も揺れる新学期

H.26 .4.11


戦前、小禄の鏡水(かがんじ)には、その土地でしか採れない、大型の大根(カガンジデークニ)があったという事は聞いて知っていたが、それが、どれ程大きく、どの様な形状であったのかは当然知らずにいた。現在はスーパーの冷蔵棚に収まる青首大根が主流だが、僕らの少年時代、1960年代には、太くて不恰好な大根もあった憶えがあり、それをさらに大型化した物 なのだろうという朧(おぼろ)げな印象は持っていた。



 小禄、鏡水~大嶺に、海軍小禄飛行場として、1933年(昭和8年)に面積10万平方メートル、幅200m長さ750mのL字型の滑走路が出来た。沖縄戦の2年前、昭和18年、滑走路は3000mに拡張された。〈ほぼこの時期に鏡水の集落と田畑の多くが日本軍に接収され、大根の畑も少なくなったと想像される。鏡水の人達は小禄の旧部落の隅に固まって新しい集落を形成していく。後年、仕事で知り合った、旅行会社の上地さんは、鏡水出身の両親がいて、幼い頃父親に手を引かれて高台に登り西の方角を指さしながら鏡水の集落の場所や畑のあった場所を教えられた思い出があるということを僕に語った事があった。〉
 戦後は米軍の飛行場や軍民共用の飛行場となり周辺は米軍基地となった。
 復帰後、米軍基地は自衛隊の新たな基地となり、鏡水大根は沖縄県民の記憶から消え去ろうとしていた。
 そんな最中、鏡水郷友会の新崎實さんを中心とする有志が鏡水大根復活の行動を起こした事を新聞で知ったのである。以下は琉球新報からの転載である。


 ”那覇の味”復活へ 鏡水大根、目指す普及促進


 那覇市は、小禄の鏡水地域で戦前、盛んに栽培され、沖縄戦と戦後の軍用地接収で一度は生産が途絶えていた伝統野菜「鏡水大根」(カガンジデークニ)の普及促進に乗り出す。京野菜など地域で古くから栽培されてきた伝統野菜を見直す動きが全国的に高まる中、県都那覇の”土地の味”復活につなげたい考えだ。鏡水大根の復活に力を注いできた農家は「鏡水大根は地域の誇り。生産力を高め、多くの人に味わってもらえるよう頑張りたい」と意気込んでいる。



新崎さんと大根


 鏡水大根は戦前、字鏡水(かがみず)(今の那覇空港や自衛隊那覇基地周辺)を中心に栽培されていた。だが沖縄戦以降、生産が断絶。鏡水地域出身で鏡水大根の復活に取り組む新崎實(みのる)さん(72)は「沖縄戦で継続的に作れる状態ではなくなり、種の保存が途絶えた。戦後は代々受け継いできた畑が米軍に接収されて無くなった。鏡水と異なる場所は土質や環境が違うため作りにくくなったのではないか」と話す。
 復活の足がかりは2006年、新崎さんら鏡水郷友会のメンバーが県農業研究センターに保存されていた種100粒を譲り受け、豊見城などで育てたことに始まる。だが現在、栽培しているのは小禄地域の住民でも10人程度。主流の青首大根などに比べると育成に手間がかかり、栽培技術の継承が途絶えていたこともあり、栽培は試行錯誤が続く。
 生産が限られるため市場には流通せず評判を聞いて農家を訪ねてきた業者への直接販売や近隣住民に提供しているのが現状だ。


 那覇市が計画した新たな事業はJAおきなわ小禄支店を通じて新崎さんら農家に生産を委託する。沖縄振興一括交付金を使い。県産野菜の地産地消を促す取り組みを含め124万円の予 算を計上した。20アール(2千平方メートル、約606坪)の農地で栽培し、3千キロの収穫を目標に掲げる。量販店や市場での販売も目指す。栽培記録を残し、栽培技術の継承にもつなげた い考えだ。
 市商工農水課は「那覇の伝統野菜をアピールし、地産地消につなげたい」と狙いを語る。事業を担うJAおきなわ小禄支店の担当者は「行政が伝統野菜に力を入れる珍しい取り組み。栽培方法も昔のものを掘り起こしながら、長期的視点で取り組みたい」と意気込む。

 新崎さんは市の事業として支援が決まったことに「栽培する価値が認められて嬉しい。戦前に育てていた先祖も喜んでいると思う」と笑顔を見せた。(2012年6月26日、新報 知念征尚)



[用語] 鏡水大根(カガンジ デークニ)
 ラグビーボールのような形で、長さ40センチ、太さ60センチ、重さは8キロ近くになるものもあるという。苦味や辛味はほとんどなく、味が染み込みやすいのが特徴だ。おでんなどによく合い、旧正月には欠かせない冬野菜として県民に親しまれていたという。  転載ここまで


鏡水(かがみず)の大根今に甦る 慶良間の海の夕焼け鳥も


 (上句は事実を述べ、下句はそれを受けて

「ダイコンの白い花が揺れ、モンシロ蝶が飛び交い、
前の海でエサをついばむ鳥達を見てみたかった」

という僕の願望を詠んだ)



鏡水自治会旗頭2番旗


 最後まで、お読み下さり有難うございました。今回は春風に乗ったライトな話題になりました。浦添の小湾村は戦後、米軍基地になりそして、村人達は同じ浦添のパイプライン脇の内間に固まって暮し、「小湾自治会」という建物もあるが、現実には今の浦添市に小湾という集落は無い、不思議な現実である。日本陸軍の中飛行場に接収され、戦後は米軍の嘉手納飛行場になった仲原村の村人達は沖縄市の一隅に暮している。同様な例は普天間飛行場にもあったと聞いている。沖縄近世には屋取り集落(ヤードゥイグヮー)という首里士族の次男や三男が地方に下り新しい集落形成があったが、沖縄戦は新しい集落形成モデルを生んだ事になる。
 鏡水という土地に特化(?)した大根とそれを愛してやまない村人達と、伝統の野菜を今に甦らせ新しいメニューを作ってみたい料理家と農業関係者、行政のクロスオーバーが生まれ、『鏡水大根物語』となったのだろう。      あ~ぁ 楽しかった・・・今日はこれでお~しまい。


〈キャンプ キンザーに消えた小湾村〉
小湾=こわん   小湾の古老達は旧村落のジオラマ(模型)まで作り、子孫に伝えている。
大根といい、ジオラマといい・・・愛郷心とは、げに麗しきものか・・・・!!  合掌


立春の朝「大安」に気がつきぬ  H26.2.4

付録1 「旧仲原(ナカバル)集落のジオラマ」 沖縄市郷土博物館蔵


ゆく年くる年(半年を振り返る「れんらく帳ギャラリー」)

地味なれど名わき役の冬瓜は八月葉月の花形になり

台所の隅に転(ころ)がっているだけで、周囲に安心感を与えてくれるシブイ。「足ティビチ」や「ソーキ」 薄く切って「味噌汁の具」にと、夏のシブイは大活躍。シブイ=冬瓜(琉球語) シブイの無い夏があれば、それは団子の入らないゼンザイ、三枚肉の無い沖縄ソバと同じです。  北海道から来た昆布や、豆腐、油あげとも仲良くしていつもニコニコ笑っている・・・・。 シブイはイイヤツです。シブイの様な女性になれよ!

〈大人になった未来の奏への手紙〉

冬瓜(トーガン)と糸瓜(ヘチマ)は夏のシンフォニー
ハンダマ ゴーヤー ドラゴンフルーツ

※ シンフォニー=交響曲 ハンダマ=水前寺菜、金時草

人影もまばらになりし公園の 夏のおわりに松笠拾う
8月25日(日)内間西公園に行く、セミはもういなかった。人も・・・・・・。


クチナシの花にケーキが似合うのは きっと互いに思いやるから
銀紙を描いてみたかった


首里文化祭

ブンカブンカの楽隊のあと 時代絵巻は始まりぬ 各自治会は旗を連ねて
〔ブンカ ブンカ=楽器の音色=文化文化〕   ↑単なる七五調の戯れ言葉


「辺野古のことなど・・・」

拓郎を聴きつつ独り飲(や)りながら 「どうにでもなれ 沖縄なんか!」


トゥンジー(冬至)のジューシー旨し 文句無し

※沖縄では冬至の日に「炊き込みご飯」を炊き、仏壇にも供える。トゥンジージューシーと呼ぶ。
↑この絵は、只今現在の僕の到達点。 これも↓ガラスや水も描きたかった。 

研鑚シリーズ

    首里金城町 當間邸

同級の崎濱クンから、年賀状の依頼があった。それに僕の絵を入れたいとのアリガタイお言葉・・・・ 題材は「赤瓦」。いろいろ考えた、今や赤瓦の甍の波など大嶺政寛の絵の中にしか存在しない。 牧志や壷屋の裏に行けば一軒や二軒はあろうが、それでは「昭和レトロ」になってしまう。思い出 したのが、ここである。家門(ヤージョー)が路にドデンと向いていなくて、中に控えて西を向いている ところや、中の瓦の土塀が美しい、豪壮でも華奢でもなくスッと斜(ハス)を向いているのが粋である。  右奥に新装なった(でも10年ほどはなるが)琉球建築の金城村家((ムラヤー)の赤瓦が見える。  どこが、どのように美しいと言葉で表現出来たらよいが、そこには作者の技量の問題があり、それ を的確に作者が表現できるかどうかでいつもジレンマにおちいる。(アネーアランタルムン!は毎度の 事なのだ。)

リニューアルした名刺


オリジナル・クリスマスブーツ


付録:12月の2日『消えた琉球競馬』の著者、梅崎晴光さんと僕の友人ナカホドヤードゥイの末裔、仲程通博くんと三人で首里当蔵、『富久屋』で歓談する機会があった。 そこで面白い話を梅崎さんからお聞きした。ヨーロッパのある地方(名前は失念したが馬が多く居るところ)の獣医か研究者が英国の科学の総合誌の『ネイチャー』に、出生する馬の5パーセントは側対歩でのみしか走ることができない。(訓練すれば普通の馬の様に斜対歩で駆ける事もできる。)という論文が発表された、ということである。早速、彼は宮古の獣医に話してみたところ、宮古馬の個体数が少ないため数についての統計的は判断は難しいが、5パーセントという数字には納得できる ・・・概ねその様な内容であった。「人間でいえば、発達障害のようなものかな~」と僕流に解釈した。


最後までお読み下さり有難うございました。今日はこれでお~しまい。では皆様良いお年をお迎えください。来年も鬼と共に笑って生きていきましょうぞ!

日めくりの薄さ日ごとに師走哉     H25,12/25

野球を愛した至誠の人─島田叡(戦中最後の沖縄県知事)ー



 11月27日(水)午後4時から、城岳同窓会館で「島田叡氏事跡顕彰期成会」が開催された。いろいろな経緯から僕も参加となった。
 現在も練習が行われているメサイア演奏会(今年は12月15日開催)が縁で知り合いとなった名嘉山興武氏より電話があり、署名簿の印刷を依頼された。数日後、納品の為城岳同窓会館に行きその際、名嘉山さんから最後の官選知事島田叡(あきら)氏と「野球とのつながり」を20分近くお話を聞かせて戴いた。(名嘉山さんは、那覇高校のご出身で、後本土の大学に学び教職に就かれ那覇高校校長や教育行政職を歴任、退職後は沖縄キリスト教学院でも教鞭をとられ、現在は城岳同窓会の副会長、沖縄男声合唱団員である。)

 島田叡という、沖縄戦を間近にした頃、大阪府の内務部長から生命を賭して沖縄県知事に赴任、県民の為に獅子奮迅の活躍をされ戦死した方という一般的な情報しか持っていなかった僕は野球と島田氏の繋がりを知らなかった。(また、そういう報道も無かったように思う。)島田杯というのは聞いて知ってはいたのだが・・・・・。



 島田叡(あきら)は、神戸二中、京都の三高、東京帝大を通じて野球部員であり、彼の人格は野球によって培われたといっても過言ではない。
 身長175cm、左投げ、左打ちの中堅手、不動の1番バッター(時に3番も打った)「瞬足巧打のサウスポーのトップバッター」だったのだ。100メートルを11秒台で走った。さらに、東大時代にはラグビー部にも籍を置いて活躍した。その詳細は設立総会時に配布された資料に詳しい。

 以上の事は総会以降に知ったのである、やっと島田氏と野球との繋がりが理解できたのだった。総会の席上、高野連の関係者が「秋の新人大会の優勝校には島田杯を贈り続けてきたが、沖縄戦の時、自分の死も省みず沖縄知事に着任した立派な方だという事は知っていたが野球との関係は多くを知らずにいた。結果として生徒達にも充分な説明がなされなかった」との発言が印象に残っている。




今年8月TBSが制作し琉球放送がON AIR した報道ドラマ「生きろ」のYou tubeを見つけた。これを見れば島田叡、知事赴任時の沖縄の様子、沖縄戦突入後、そし て最後の状況、また神戸二中、三高、東大時代の野球のエピソードそして海軍、大田少将との出会いと交わり、島田知事の沖縄との関わりの全てが網羅されている。必見の動画である。(1時間45分CM無しのストレート)


島田叡 wikipedia


武士道とジェントルマンシップ・スポーツマンシップを一身で体現

 島田叡は、1901年(明治34年)神戸市須磨区の開業医、島田五十三郎の長男としてうまれた。旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)第三高等学校を経て、1922年(大正12年)に東京帝国大学法学科へ入学。中学・高校・大学と野球に熱中し東大時代は神宮球場のスター選手として、またラグビー部とも掛け持ちするなどスポーツマンであった。
 東大卒業後、1925年(大正12年)に内務省に入省する。主に警察畑を歩み、大阪府内務部長をつとめていた1945年(昭和20年)1月10日、沖縄県知事の打診を受け、即受諾した。
 各省庁と折衝すると称して東京に頻繁に出張していた前任者の泉 守紀には、出張中にも係わらず、香川県知事の辞令が出された。沖縄への米軍上陸は必至と見られていたため後任者の人選は難航していた。沖縄に米軍が上陸すれば、知事の身にも危険が及ぶため、周囲の者はみな止めたが、島田は「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺 が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」として、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛んだ。
 同年1月31日、島田は赴任するとすぐ、沖縄駐留の第32軍との関係改善に努め、前任者のもとで遅々として進まなかった北部への県民疎開や、食料の分散確保など喫緊の問題を迅速に処理していった。
 同年2月下旬には台湾へ飛び、交渉の末、蓬莱米3000石分の確保に成功。蓬莱米は那覇に搬入された。〈本島北部に疎開中の避難民に向け名護への搬入も確認されている。〉こうした島田の姿勢により、県民は知事に対し、深い信頼の念を抱くようになった。
 同年3月に入り空襲が始まると、県庁を首里に移動し、地下壕の中で執務を始めた。以後、沖縄戦戦局の推移に伴い、島田は壕を移動させながら指揮を執った。軍部とは密接な連携を保ちながらも、およそ横柄なところのない人物で、女子職員が洗顔を勧めると「お前が命懸 けで汲んできた水で顔が洗えるかい」と言い、他の職員同様、米の研ぎ汁に手拭いを浸して 顔を拭っていた。

 陸軍守備隊の首里撤退に際して、島田は「南部には多くの住民が避難しており、住民が巻添えになる。」と反対の意思を示していた。同年5月末の軍団長会議に同席した島田は、撤退の方針を知らされ、「軍が武器、弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退し、 住民を道連れにするのは愚策である。」と憤慨。そのとき牛島司令官は、「第32軍の使命は本土作戦を一日たりとも有利に導くことだ。}と説いて会議を締め括ったという。
 同年6月9日、島田に同行した県職員・警察官に対し「どうか命を永らえて欲しい。」と訓示し県及び警察組織の解散を命じた。

 同年6月26日、島田は荒井警察部長とともに摩文仁(糸満市)の壕を出たきり消息を絶ち、今日まで遺体は発見されていない。元兵士による「(島田は)壕で自決した」との証言もある。また、1971年(昭和46年)9月1日付けの沖縄タイムスに掲載された記事によれば、機関銃隊の兵長だった山本初雄が「私ら独立機関銃隊の一部は敗走し、摩文仁の海岸から具志頭の浜辺に出た。日没時、食料さがしに海岸沿いを糸満方向へ約200メートル行った海のすぐ近くに壕があり、地元(民間)の人が三人いて、「知事さんが入っておられますよ」奥行き6メートルぐらいの横穴で、頭を奥にし、左側を下にしておられた。「知事さんだそうですね」とたずねると「私は島田知事です」と胸から名刺を出した。「負傷しているんですか」と聞くと「足をやられました」といわれた。「兵隊さん、そこに黒砂糖がありますからお持ちなさい」と言った。何も食べていないときですよ。えらいと思います。二つもらって「元気にいて下さい」といって自分の壕に戻ったのを忘れません。
 その翌日、海岸に流れついた袋の中に入っていたメリケン粉をハンゴウで炊いてスイトンをつくり、島田知事に持って行った。先日と同じ地元人が「知事さんは亡くなりましたよ」という。壕に入るとヒザのそばに短銃があった。右手から落ちたような感じで「ああ自決したん だなあ」と思った。合掌して知事さんの壕を出ました。と証言した。〈島田は左利きなので短銃が右手の下に落ちていたのは偶然にそう見えただけだと思う、片手把持(はじ)の場合短銃は利き手を使うのが自然である。〉



 1945年(昭和20年)7月9日、島田の殉職の報に際して安倍源基内務大臣は、行政史上初の内務大臣賞詞と顕功賞を贈り、「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」と称えた。
 内務大臣が一知事に賞詞を授与することは、前例がなかった。1951年(昭和26年)県民からの浄財の寄付により、島田をはじめ死亡した県職員453名の慰霊碑として摩文仁の丘に「島守の搭(しまもりのとう)」が建立された。

 沖縄戦時に、海軍陸戦部隊を率いて沖縄の地で玉砕した大田實少将とは沖縄戦の最中でも密接な連絡を取り合い。大田が1945年6月6日に海軍次官〈井上成美大将、いのうえしげよし〉宛てに発した最後の電文中にある「県知事より報告せらるるべきも」「本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども」の冒頭文は、既に沖縄県の組織自体に通信能力が無く、民間人の苦労を伝えるのに最も相応しいのは「県民に関して、殆ど顧みるに暇なかりき」といった自分達ではなく、最後まで県民と共にあった島田達であるが、大田が行政官である島田に代わって県民の姿を伝えたものである。

 大田實少将の訣別電文の最後尾には「沖縄県民斯ク戦エリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ワランコトヲ」・・・・沖縄県民を思う心があふれている。
 島田叡知事、大田少将・・・・沖縄戦終了から68年。風化させてはならないエピソードである。

 『はいから』のブログより引用 タイトルと〈 〉は筆者


「時を超えた人と人との繋がり」という事を想う


 島田知事と、海軍の沖縄根拠地隊司令官大田實少将は、短い時間の接触でありながらも、「肝胆相照らす仲」であったと云う。頭(論理的にも)心(心情の面でも)互いに良く理解し、信賴し合える仲であったということなのだろう。
 前出、大田少将の訣別電はあまりにも有名だが、その前文にも大田少将の想いが込められていることを今回あらためて分かった事であった。又、この電報は海軍次官、井上成美宛てである。当時、井上大将は特命を帶びて終戦工作の任にあったが、この電文に接してそれに加速が加わったであろう事は想像に難くない。

 野球に関して言えば、復帰前の沖縄の高校野球に深い想いを寄せて下さった、当時の高野連会長、佐伯達夫氏(大阪府出身、旧制市岡中から早稲田)は島田と同じ関西の出身である。同郷の9歳年下の神宮のヒーロー、島田叡の沖縄での活躍とその死を知らない訳があるまい、沖縄の高校野球の振興に心を砕いて下さった姿と島田氏の姿が二重写しに見えるのである。

 甲子園大会、沖縄勢で初の一勝を上げた[1963年、日大山形に4-3、首里高校]勝利投手、僕の母校の先輩、又吉民人氏(県野球連盟理事長/前経営者協会専務理事)が島田叡氏事跡顕彰期成会の[推進委員]事務局次長として挨拶を述べられた。
 沖縄尚学高校の甲子園初優勝、興南高校の春夏連覇、今年の秋の九州大会での沖尚、美里工の決勝戦。沖尚高の明治神宮大会の初優勝。又、東京六大学リーグの明治と法政東都大学リーグの中央大の3校のキャプテンが春夏連覇の興南高校のチーム出身者から選ばれるなど、昨今の沖縄野球界の隆盛を見るに付け、雲の間から微笑んで見ているであろう佐伯達夫氏の事を忘れてはなるまい、と思う。



挨拶をする又吉氏、後方に名嘉山さん


 松本清張の『点と線』ではないが、沖縄戦をまたいで、いろいろな人物のいろいろな行動が人から人を通じて現在の『沖縄』を形づくっているのだと想う時、日々の平凡な一日一日を大切に生きて行こうと思う。



付録1 大田少将訣別電 全文

※文中の■は不明
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電■次官ニ御通報取計ヲ得度


沖縄ノ県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力無ク三十二軍
司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ
看過スルニ忍ビズ之ニ代ッテ緊急御通知申上グ

沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民に関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於イテハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛招集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子
ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差シ支エナキ場
所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ■中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来タリナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ
親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄
無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ駆セラレタルモノトハ思ハレズ更ニ軍ニ於テ
作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終始一貫勤労奉仕物資節約を強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護 ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ■■■■与ヘ■コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形■一木一草焦土と化セン
糧食六月一杯を支フルノミト謂フ
沖縄県民斯ク戦エリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


付録2 首里の先輩照屋苗子さんの証言動画 前・後


ディテール(細部)は本質に迫ります。
下の方に窓が二つ有りますが上の方のYou tube版をクリックしてください、
前半17分のあと13分の後半があります。


最後までお読み下さりありがとうございます。今回は少しヘビ~だったかも?マァイイカ~


約70年前、昭和18年10月21日、小雨に煙る神宮外苑競技場で学徒出陣壮行会が挙行された。
時は流れ平成25年秋、隣の神宮球場で開催された明治神宮野球大会に九州代表として出場した沖縄尚学高校は初優勝を飾った。


今やかの三つのベースに人満ちて そぞろに胸の打ち騒ぐかな
九つの人それぞれに場をしめて ベースボールは始まらんとす 子規

H.25.12.8

シャーラ トン トン 琉球絣

 これは、今年の2月に書いた「暮らしの中のフォルム」の最後部に載せた予告編「織り柄の進化」の発展型である。2月から半年余り5号に亘って色々書き連ねてきたが、そのテーマを忘れていたのではなかった。

暮らしの中のフォルム

 3月に書いた「暮らしの中のフオルム(シーサー編)」の取材の為にカメラを持って街へ出るまで「織物」の事や、まして「織り柄」の事など、全く関心が無かったし、その知識も全く無かった。たまたま当蔵大通りの,左側の写真のビルのベランダの柵が目に飛び込んできた。 「ナンダコリャ!」写真でいうポジとネガの連続模様、その斬新なデザインが心に残った。しかもそれが沖縄伝統の織り柄のデザインを建築に転用するという新しい発想に喝采を浴びせたい気持ちの高まりを覚えたのだった。「そういえば、もう一つあったぞ!」とウチの墓近くの、瑞泉酒造裏手の崎山ハイツにある建物を思いだし、それもカメラに納めた(右の写真)これも同じ柄だが、色が付いたペンキ塗装である。ともに八重山のミンサー織りの柄であると知ったのは後日である。

 この記事の冒頭にも書いたが「織物」や「織り柄」には全く興味を持たなかった僕だが「織物・織り柄」という切り口というか「視座」を持ってしまった以上「将来それに係わる事物に必ず出会うだろう」という、すごく悠長かつ楽観的な蓋然性(がいぜんせい)を信じて、このテーマは脇にほっておいたのだ。ところが、やっぱり「奴はやって来たのだ!」前触れもなく!

 南風原町は「かすりの里」を標榜していて、町には「琉球かすり会館(琉球絣事業協同組合」があり、本部・照屋・喜屋武の各集落はそのメッカとなっている。さらに本部には「かすりロード」という散歩道があり、歩道に施された文様を頼りにたどっていくと、織物工房、織機制作所,湯のし屋(火のし、がアイロンなので湯の熱で絣はシワを伸ばすのか?)その他関連職の工場があったり、ビーマという柄の最小単位の図柄が名前と説明文とともにあちこちの塀や壁に据え付けてある。
 そんな、不思議な空間に旅にでた。今号はその報告である。

織物・織り柄

織物・織り柄

先ず、ざっと「絣(かすり)」のおさらいから行こう。

絣 wikipedia

絣(かすり}は、織物の技法の一つで、絣糸(かすりいと)、すらわち前もって染め分けた糸を経糸(たていと)、緯糸(よこ糸、ぬき糸)、またはその両方に使用しておりあげ、文様を表すものである。『絣』は日本および琉球の織物を指す用語であるが、これに類した織物は東南アジアをはじめ世界各地にみられ、マレー語で「縛る(しばる)、括る(くくる)」を意味するイカットという語で呼ばれている。つまり、紅型(びんがた)のようなプリントではないという事だ。

織物・織り柄

織物・織り柄

① 琉球絣の歴史・・・・・(琉球絣事業協同組合HPより)

 遠くインドに源を発し、東南アジア各地に広がった絣が、琉球王府の大交易時代の波に乗って,沖縄に入ったのが14~15世紀ごろ。それ以後、中国・日本や東南アジアの影響を受けながらも、琉球の気候・風土にマッチした独自の絣が沖縄各地でつくられ、その絣が海を渡り、薩摩絣、久留米絣、米沢琉球絣、伊予絣など日本の絣のルーツとなった。

織物・織り柄

かすりロード

織物・織り柄

織物・織り柄

② 琉球絣の特徴

琉球絣の大きな特徴は、およそ600という多彩な図柄、これら爽やかな涼感をさそう幾何学模様の図柄は琉球王府時代から伝わる「御絵図帳(みえずちょう)」をもとに、職人たちが現代の感覚を取り入れて、オリジナルをつくりあげる。この図柄をもとに、糸を染め上げる時、、少し ずつ手括りで締め上げていくという、大変手間のかかる方法で、独特の絣模様をつくる。
 織りは、緯糸(よこ糸)を経糸(たて糸)の間に投げ込んで(杼(ひ)を投げこんで)織っていく昔ながらの技法で、1日せいぜい1~2メートルぐらいずつ丹念に織り上げていく。

柄の最小単位『ビーマ』

 以下に展開する写真は字本部の「かすりロード」の壁面に取り付けられた「絣の柄」の最小単位でこれを『ビーマ』と呼び、その呼び名とその解説である。

織物・織り柄

トゥイグヮー①二羽で飛ぶ鳥小
 この形は琉球絣の中で最も多く用いられる緯絣(よこがすり)の文様で、経と緯(タテとヨコ) が重なる他の絣ともよく釣り合う。

織物・織り柄

トゥイグヮー②
 鳥の絣は数種類あり、このトゥイグヮーの曲線は同じ長さに染められた緯絣(とこがすり)を両手で右や左にずらしながら、織る幅小寄(はばぐゎゆい)や手寄(てぃゆい)と呼ばれる技法で織られる事が多い。

織物・織り柄

カキジュー
 ナベや道具を吊るしてかけるもの、本土では流水と呼ばれる文様だが沖縄の絣は生活に密着した道具の名前が多い。

織物・織り柄

イチチマルグムー
 緯絣(よこがすり)二本ごとに絣の無い緯糸(よこいと)一本を織り、ぼかして五つの雲を表現した文様。

織物・織り柄

ジュウサンムッチリー(十三連なり=十三もつれ)
 輪になって連なる星が中心を囲むようにジューサン(十三)の星で調和を表現している。

織物・織り柄

ティージクンビーマー(ティージクン=握りこぶし)
 握りこぶしに似たこの緯絣(よこがすり)は絣と絣の間をつなぐ小絣としてよく用いられます。

織物・織り柄

ハナアシー(花あわせ)
 経絣(たてかすり)三筋の切れ門に緯絣(よこかすり)三筋を織り併せて花の形段違いに並べた文様。

織物・織り柄

ビックー(鼈甲=海ガメの一種であるタイマイの甲羅)
 六角形の中に花をあしらった吉祥文様、織り幅に並ぶ鼈甲(べっこう)が小さく数が多いほど長寿を願う気持ちが込められているとされる。

織物・織り柄

ブリブサー(ブリブシ=群星)
 夜空に輝く星団は経絣(たてがすり)と緯絣(よこがすり)の重なりで地色との対比を強調して群星(群れ星}を表現した。

織物・織り柄

ミミチキトーニー
 トーニーは沖縄の方言で四角い容器、芋洗いの箱や、家畜のエサ箱、湯船(ユブネ)等で、小絣が二つ耳のように付いている文様。耳付きトーニー。

織物・織り柄

経緯絣(たてよこがすり}
機(はた}に似た絣と二つの四角な経絣(たてがすり}と緯絣の重なり、地色との対比を強調し絣全体をバランス良く配置される。

織物・織り柄

ビーマの組み合わせ
 琉球絣の模様は数百首にもおよぶといわれ、緯糸だけで描く左右もしくは上下対象の模様をビーマと呼びます。ビーマを複数あわせて抽象的な模様や具象的な波や動物などを表現します。

織物・織り柄

イチチブサー(五つ星)
 夜空に輝く星団は経絣(たてがすり)と緯絣(よこがすり)の重なりで地色との対比を強調して五つ星を表現します。

絣の現状について

 絣は現在でも日本各地で織られており、洋服、ネクタイ、鞄、タペストリーと装飾やその他小物にも利用されているが、生産に手間がかかるため、割高であるにもかかわらず、もともと普段着の素材のため高級品とは見なされず、需要は伸びていない。いずれも少数の織元が細々と生産するに留まっている・・・・・。とある。
 現代の「ブランド指向」とは対局にあるのであろう『絣』は時代遅れなのかもしれない。『絣』との出会いは僕にとって新鮮なものであった。そういう『絣』を織り続ける人達が居る事を心強くおもった次第。
 現在の僕もビジネスとは程遠い「生業」「稼業」の世界に生きているのだが、生き生きと仕事を続け、平凡な日々を積み重ね、それでいて「平凡」の中に埋もれず「平凡」の中の変化を見極めるシャープな感性を忘れない事・・・・それでいいのだ!・・・・・というのも今回の収穫かな??と思っている。

織物・織り柄

付録 旧首里市章

織物・織り柄

織物・織り柄

 絣の事を調べている最中フッと旧首里市章の事が頭をかすめた。首里市の市制施行は1921年(大正10年)。1954年(昭和29年)に小禄村と共に那覇市に合併された。同年2月生まれの僕は旧首里市章を知らないが、その市章を首里市営バスから首里バス株式会社の社章として引き継ぎ、バス車体の前部や横に大きく描かれていたので僕は永く首里バスのマーク であると思っていて、それが旧首里市章と知ったのは遥か後年である。
 父の幼馴染の上間長和氏が首里市会議員を経て首里バス株式会社の社長に就任するにあたり、その「よしみ」で回数券や定期券をウチが印刷していたので、そのマークの凸版は日々見慣れたものとなっていた。このマークへの愛着は幼い頃の思い出と重なっている。
 先頭写真は休日の朝早起きして作図したものだが、「首里バスモデル」に近い、首里バスモデルは菱形が正方形に近く、4つの「ユ」の横棒が太い、僕のはもう少し形をソロバン珠に近づけ横棒を少し細くしてある。カラカラに描かれたのは更に菱形の上下を詰め「ユ」の線も細く趣がある。これも、いわゆるロゴマークなのだが、当時のこととて著作権や形の規定や色の指定などが厳しくなく様々なバリエーションのものがあったと想像される。
 今回、このマークをジーッと眺めていると、この意匠をデザインした人は「織り」や「織り柄」を身近に見て、知っていた人物なのではないか?デザインが織り柄っぽいと感じたのである。
 4つの「ユ」に真ん中に「り」でシュリを菱形にまとめた物なのだが、4つの「ユ」がひとつのビーマでその中に「り」というビーマを織り込んだのではないか?「ユ」の縦棒が極端に右寄りである、菱形の輪郭を崩したくないという思いもあったとは思うが、首里の街の景観のバックボーンになり、人々の生活の隅々に根ざしていた、琉球松の松葉を「ユ」に図案化して織り込んだのでは?紺地に白でこの柄を浮き上がらせ展開すれば素敵な織物にならないかな~と思ったのだ。「それが何なのさ!」とツッコミが入れば二の句を告げることは出来ないが、想像の世界で遊ぶ事の好きな僕の思いをコッソリと発表してみたかったのだ。

シャーラ トントンってなに?

機(はた)の足元、踏み木を踏むと経糸(たて糸)が上下に分かれて、隙間が出来る、その間を小舟のような優雅な形をした杼(ひ)を投げ入れる、杼には緯糸(よこ糸)が巻き込まれていて経糸の表面を滑るときシャーラという音がする。
 次に、筬(おさ)という2本の櫛(くし)を上下に合わせ櫛目に経糸が通っている形のものでトントンと糸目を詰める一連の作業を音で表したもののようだ。(説明がないので勝手に決める。)
 『夕鶴』 日本昔話バージョン「つるのおんがえし」の(つう)が(与ひょう)のために機を織るシーンを思い出してみよう、確かにシャーラ トントン シャーラ トントンと聞こえてくる。

織物・織り柄 ターンタ タン タン(シャーラ トントン)

最後までお読み下さり有難うございました。今日はこれでお~しまい。

研鑽シリーズ

織物・織り柄    織物・織り柄

織物・織り柄

茶柱に天(そら)見上げれば鰯雲 H25.10,27

君はンマハラセーを知っているか?

プロローグ

 昭和初期の首里。琉球八社の一つ、末吉宮と隣り合わせの、沖縄県下で最も由緒ある馬場(ンマウィ-)は、その日、午前中からウチナーンチュの熱い吐息に包まれていた。
 那覇、首里はもちろん、沖縄本島各地、島尻郡の具志頭(ぐしちゃん)や玉城(たまぐすく)、中頭郡(なかがみぐん)の北谷(ちゃたん)や読谷(よみたん)からも、年に一度の大競馬を観戦しようと馬場にに詰めかけ、リュウキュウ松のそびえる左右の土手は立錐の余地もないほど見物人であふれた。
 流行のパナマ帽をかぶった男たち、沖縄伝統の髪型のカンプーに銀のジーファー(かんざし)を差した年配の女たち。この日のために、普段着のバサージン(芭蕉布の着物)より袖丈が長い、とっておきのクンジー(紺地の着物)でめかし込んだ娘たち。ただし、その若い女性たちのヘアスタイルは年増女と少し違う。髪を丸く頭の後ろに巻いてピンで止めているだけ。那覇で人気の新型髪型である。年増女がその新型を指差して「ンマヌクスー カラジ」、まるで馬の糞のような髪型だと陰口をたたいていると、出走場の馬場入りに合わせて裸足の少年たちが馬場の脇に並ぶ出店で買ったブリキの豆ラッパ・ビービンサーを力いっぱい吹き始めた。豆ラッパの「ビービー」という威勢のいい音に、馬のいななきと蹄音が交錯する。  

平良真地(テーラマージ西端スタート地点から見る) 
平良真地(テーラマージ西端スタート地点から見る) 


ゴール地点から振り返る 
ゴール地点から振り返る


 目の前に近づいてくるのは色とりどりの房で飾りつけられた競走馬。その背には羽織袴を着けた騎手が紅白のたすき鉢巻きをして、紅白の唐鞍にまたがっている。
 競馬は沖縄流の二頭ずつで争う対抗マッチ・レース。大相撲や闘牛の番付のように、力の拮抗した馬同士を組み合わせて、下位の取り組みから上位の取り組みへ進んで行く。
 中頭、島尻からの出場馬総数二百頭が紅白、紅=中頭、白=島尻に分かれての勝負が大 詰めを迎えた夕刻、末吉宮の森が揺れるほどの歓声を浴びて、シーウマ(結びの大一番)に登場したのは、中頭の代表として出場した噂の名馬である。まるで琉球舞踊のような華麗さで妙技を魅せる沖縄の名馬の中でも、この馬の走りはとりわけ際立っていた。流麗な脚さばきで加速すると、長い尻尾を垂直に伸ばし軽やかにフワリと舞ってみせる。美技と弾力を兼ね備えた名馬の中の名馬である。
「ヒコーキ小(グヮー)!」
 馬体を躍らせ、しなやかに四肢を伸ばした瞬間、興奮した腕白(ウーマク)少年たちが口々にその名馬を連呼しながら、土手を駆け下りていく。審判の勝利を告げる紅旗が上がった。
旗の色を見るまでもなく、ヒコーキの優勝は誰の目にも明らかだった。
※歓喜雀躍する様子が目にうかぶ、アッチャメーグヮーを踊りだす者、前に出てティーを使うヒョウキン者(アッチャメーグヮーは、カチャーシーの別称ティーチカユンは空手の型の一部を披露し、喜びを現す・・・拍手やスタンディング・オベーションでは表現できないのだ)

名馬「ヒコーキ号」 白馬、小顔で見事なプロポーション・・・ナ~ルホド!!


※「上の白馬の写真は、沖縄在来馬ではなく洋種であり関係のない別の馬である」と『消えた琉球競馬』の著者、梅崎 晴光氏により指摘を受けました。写真はボツにする事なくそのままにしておきます。


 「シタイ!」。首里っ子たちの叫び声に交じって、「シタイヒャー!」「チャーガヒャー」と、中頭から駆けつけた応援団の勝どきが挙がる。平良真地を舞台にした大競馬のどよめきは、新北風(ミーニシ)に乗って、二キロ先の首里城にまで届いたというーーー。

   沖縄ではかつて世界に類を見ない競馬が行われていた。サラブレッドが速さを競うレースではない。宮古馬などの小柄な沖縄在来馬が足並みの美しさを競った。馬具に華麗な装飾を施し、直線走路で美技を競い合う独自のスタイルが、琉球王朝時代から戦前まで約300年間、連綿と受け継がれてきた。沖縄語で「ンマスーブ」(馬勝負)、あるいは「ンマハラセー」(馬走らせ)、「ンマズリ」(馬揃え)とも呼ばれた琉球の競馬である。
 舞台は沖縄本島のほぼ全域と宮古島、さらに石垣島、伊江島、伊平屋島、伊是名島、久米島にも馬場があり、沖縄全体では180近くの馬場があった。

『消えた琉球競馬』からの引用ここまで、(写真は除く)


 毎朝、夕と孫の奏(かなで)を首里大名町にある若杉保育園に送迎している。中城御殿裏(ウドゥンヌクシー)の我が家を出て、安谷川の坂を下り、儀保十字路、平良交差点を左折、最初の信号を左に約150メートル、ミチグヤー(道絡み)を複雑に右折すると、間もなく車は道幅(約18メートル、全長278メートル)の直線の道に出る。ここが昭和17年(沖縄戦20年、学童疎開船「対馬丸」沈没同19年)沖縄県下最後のンマハラセーが開催された、平良真地(テーラマージ)である。今では、大名町との境にあることら、「大名馬場道り」と呼ぶほうが通りが良いかも知れない。


首里には3つの馬場があった  〔首里八景の御料馬〕

龍潭松崎 ここはあまり知られていない。
 写真中央が「松崎」龍潭東畔からわずかに突き出たこの半島は往時、琉球松が覆いその後方に「松崎馬場」はあった。


松崎馬場 〔以下引用〕
 首里には王家(尚家)の御用馬場だった松崎馬場と崎山馬場の跡地がある。
松崎馬場は近世王朝時代、首里城北に位置する龍潭の東岸に設けられていた。冊封使をも てなす重陽の宴(ちょうようのえん・旧暦九月九日菊の節句)では龍潭に浮かべた爬竜船競漕 の観覧桟敷が置かれたという。馬場跡の碑文〈龍潭に突き出した一帯は松が植えられ、そこから松崎と名づけられた。1801年にこの地に国学が置かれた際、松崎前の路に木々が植えられ、一帯が整備された〉という。現在琉球王府の最高学府だった場所は、沖縄県立芸術大学の敷地となっている。残念ながら、馬にまつわる記録は見つからない。競馬の舞台ではなく琉球王朝による公式行事の会場として使用されたのだろう。〔引用ここまで〕
現在の松崎馬場跡とカジマヤーにある碑文


崎山馬場
   崎山馬場は歴代の琉球国王にこよなく愛された「馬揃え」の舞台、紛れもない競馬場である。
東西に325メートルの走路が延び、馬場の中央には石で仕切られたウサンシチ(国王が御座する御桟敷)馬場の周りには首里八景の一つに挙げられた蓬莱竹の生垣が肩先ほどの高 さで連なっていた。歴史家の新崎盛珍は『思出の沖縄』にこう記している。〈往時は、綺麗に刈り込んだ竹り←竹かんむりに離〈竹垣の意〉がずらりと両側にならび、その内から栴檀〈せんだん〉が瀟洒〈しょうしゃ〉たる姿を顕していた。

スタート地点の西端、「馬追いの尻」(ウマウィーヌチビ)そして東端ゴールの「馬追いの頭」(ウマウィーヌカラジ)を望む、今も付近の人達はそう呼ぶ。


 私は、当初首里の3つの馬場を紹介しながらンマハラセーを語ろうと資料を集めたり、写真をを撮ったりしていた。そのさ中、ある『本』との衝撃的且つ運命的な出会いがあったのである。


『消えた琉球競馬』  梅崎晴光 著


 表紙の帯には「沖縄には世界に類が無い走りの美しさを勝負する競馬があった。沖縄各地の馬場跡を訪ね、時代の断片に触れる旅、沖縄人も忘れ去った歴史を掘り起こすノン・フィクション 何故、琉球の競馬はきえてしまったのだろうか?」というものだ。
 そうだ!この本からの引用を縦糸として、僕の調べたことや写真や動画を横糸にすれば面白い「琉球お馬物語」が織りあがるのでは?!というのが今回の趣意である。

   先ず、著者の梅崎晴光さんは、昭和37年、東京うまれ、スポーツ日本新聞社の記者で中央競馬の担当を20余年、「馬」繋がりで琉球競馬「ンマハラセー」を知るや、そのブン屋魂を存分に発揮、レンタカーを繰り、本島北部・中部・南部、又、宮古・八重山まで足を運び、いろいろな人物への「取材」をかけてロング・インタビュー、膨大な取材ノートを作成、同時進行で県立図書館・資料館を巡り各地方誌(市史、町史、村史)にあたり、その行動力と洞察力をして、この本の重要な伏線となっている『幻の名馬ヨドリ与那嶺小ヒコーキ小(ユードゥリ ユナンミグヮー  飛行機号)』の全容を解明して行くのである。
 この本を一気に読み終え僕は、「プーッ!」と大きく息をついた。ともすれば辛く悲しい事の多い沖縄の近世に「ンマハラセー」の指笛や歓声やヤグイの声・・・が響いた時、甲子園で優勝した時に吹いた一陣の涼風のような明るさを垣間見た想いがしたのである。「風を見たのだ」喜びの長嘆息だったのだろう。

今年3月7日、沖縄市の「沖縄こどもの国」で70年振りにンマハラセーが復活した。笑いそうになるが、わらってはいけない。側対歩(そくたいほ)という独特の走りをとくと御覧下さい、この馬たちは普通の走り方が出来ないのではなく、訓練によって身に着けた走法で走っているのです。動画の後に説明いたします。 動画スタート ここをクリック


琉球競馬とは

 競馬といっても、体高(地面から肩までの高さ)1メートル60超の大型サラブレッドが十数頭一団トなって1000~3600メートルの距離で極限の”速さ”を競うJRA(本土の中央競馬)のレースとは競争スタイルがまるで違う。ナークー(宮古馬)を中心に、シマジラー(本島島尻産馬)、クミー(久米島産馬)、イヒャー(伊平屋島産馬)、エーマー(八重山馬)など1メートル20センチにも満たない小柄な沖縄在来馬が、200メートル前後の短い直線走路で二頭ずつ足並みの”美しさ”を競った。
 馬の後肢や肩先を赤や黄色の生地、花で飾り付け、朱塗りの唐鞍や和鞍に紅白の手綱。 騎手は花織柄などの羽織袴に身を包み、紅白のたすき鉢巻き。馬も人もあでやかな衣装で 馬場に入ると、地区別に紅白二手に分かれ、決勝点(ゴール)に陣取る数人のンマビトゥー(審判)に向かって、二頭で併走しながらブレることなく前後肢を伸ばす。


宜野湾馬場


独特な走り方 側対歩(そくたいほ)

 その走り方も独特だった、ウチナーグチで「イシバイ」(落ち着いた走り)、「ジーバイ」(地走り)、あるいは、「ジュンバイ」、「トントンバイ」と呼ばれる細やかでゆっくりとした脚の運びで、四肢のうち一肢を地面につけて進む、馬の走り方は、スピードの遅い順から、時速6~7キロの常歩〈並足(ナミアシ)ウオーク=四肢のうち二、三肢を常に地面につけた走り〉15キロキロ前後の速歩〈早足(ハヤアシ)、駝駆ダクトロット=四肢とも地面から離れたはしり〉、25キロ~30キロの駆歩〈駆け足(カケアシ)キャンター、60キロ前後の襲歩(全速力、ギャロップ〉に大別されるが、琉球競馬では、常歩と速歩の中間、「早常歩」と呼ばれる走りである。「ムルカキバイ」 (全力疾走)をすると反則負け、「ヤマト走り」(本土風の走り方)といって笑いものにされた。そのため、騎手は「イシレー」、「イシティドー」(落ち着けよ)と馬をなだめながら競争を進めた。
ここをクリック   このサイトは右側にそれぞれの走りの動画がある
 もう一つの大きな特徴は「側対歩・アンブル」と呼ばれる脚の運びである。通常、馬は左右対称の走り方、つまり右前脚と左後脚、左前脚と右後脚をほぼ同時にうごかす「斜体歩」で走るが沖縄では右前脚と右後脚、左前脚と左後脚を同時に繰り出す「側対歩」(ソクタイホ)で競争した。人間でいえば、右足と右手、左足と左手を同時に前に出す「ナンバ走り」。陸上競技200メートル走の日本記録(20秒03)を樹立した末続慎吾が広めた飛脚のような走法である。馬がこの走り方をすると加速しても上下の揺れが少なく水平に進むことができる。馬上で弓を射るのに適しており流鏑馬(やぶさめ)、笠懸(かさがけ)などヤマトの古馬術もかつてはこの走法だった。戦国時代には合戦に備えて側対歩の訓練を積んだという。荷車を引く馬も側対歩で推進しており、戦前戦後にヤマトで開催された繋駕競争(馬車を牽きながらスピードを競うレース)もこの走り方である。

〔以上引用ここまで〕

ここをクリック  これは北海道の「ばんえい競馬」北海道産、和種(どさんこ)の側対歩


こぼれ話 おもしろい話

 今帰仁 仲原馬場の思い出 新城紀秀氏
「馬勝負に勝った騎手は、弓なりの松にぶら下げてある手拭いを取っていきます。賞品といえばそのぐらいのものでしたが、勝負には物品ではなく誇りや名誉が懸かっていました」と言う新城さんは、数学の元教員らしく競馬の見物人を五通りに分類した。
〈①馬を見る人、②騎手の見事な手綱さばきに”シッタイヒャー”とヤグイ(気合い、声援)をかける人、③晴れ着を着て、見られに来るアングヮーター(お姉さんたち)、④うの目たかの目で馬を見ないで女ばかり見てまわるニーセーター(青年たち)、⑤人垣の後ろでガチマヤー(食いしん坊)だけしてまわるワシタ ワラバーター(私ら少年)。”遊びぬ美らさや、人数ぬすなわい”(遊びが楽しく美しく感じるのは人数が多いからで少人数では盛り上がらない)であった〉(『今泊誌』)


 チンギスハーンも側対歩だった、上下動が無いので弓の的中率が格段に上がった
 敵との距離500M、単横陣で風上から側対歩で接近、矢を射掛け始め敵を暫減せしめる、彼我の距離200Mで歩法をギャロップ(全速力)に変え剣をふるって敵陣の一点に殺到する・・・
これは僕の描いたチンギスハーン騎馬軍団の戦法であるが多分そんなものだったんだろう。


スタートはアイコンタクト
ディー!(さあ行こう)トー!(よしいいぞ)と互いに合図を交わして勝負は始まる。目上の人には敬語の『サイ』を付けて『ディーサイ』『トーサイ』と声をかけあっていた。
日本の大相撲も、競技者同士の「息を合わせて」立ち合う。現代一般日本人は行司が土俵をコンと打って立ち合っていると思っている人がいるかもしれない。しかし、そうではない。「相手より早く立って、マワシを引きたい」「少し遅めで、(後の先)を取りたい」いろいろな思惑が錯綜する中で、競技者と行司の三者の手練の美技がそこにはある。行司の「コッタ!」「コッタ!」「ッキヨーイ!」は観衆に対して「今、立派に公平に立ち合った!」とアピールする為のパフォー マンスなのだ、この三者を支配しているのは日本古来からの美意識『清き明(あか)き心』だと僕は思う。相撲が神事であった由縁であろう。
 「ンマハラセー」も「大相撲」も On Your Mark ! Get set !  Go ! の世界ではなく。お互いに息を合わせてはじめるというところが、なんとも嬉しいのだ。

エピローグ

 今回は、首里にある3つの馬場跡を材料にして「ンマハラセー」を調べ、今年3月に70年振りに復活した「沖縄こどもの国」のンマハラセーの動画をもとに、視覚的にも理解出来るように、そして「側対歩」という日本古来の馬術をまがりなりにも触れる事が出来たと思う。『消えた琉球競馬』との出会いはあまりに大きかった。プロローグを見れば解るように、梅崎氏は当時の平良真地(テーラマージ)の状景を鮮やかに描き出している。氏の沖縄の文物に対する理解は相当に深く且つ広いものであるが、それをとても喜び、協力を惜しまなかった沖縄の各地の先輩達にも敬意を表したい。

 総括として、国建の調査担当で民俗学研究家の西村秀三氏の論考を記しておく。
 西村氏が著した『馬場と馬勝負』(平成17年、「沖縄文化」99号)は沖縄の馬場や競馬を語るうえで欠かせない論文だが、同論文によると、198場の内訳は、沖縄本島172(北部33、中部51、南部88)、本島周辺離島20、崎島6(宮古3、石垣3)市町村別では那覇市内が最も多く19場、名護市内16場、豊見城市内14場、糸満市内13場、具志川市内(現うるま市)11場と続いている  (中略)   明治13年~明治末の間に71場から200場近くまで膨れ上がったと見られる。王朝消滅後の近代・明治期に馬場が激増した背景について、西村秀三氏はこう語る。
 「近代以降の沖縄の民衆は士族や士族文化に強烈な憧れを持っていたと考えられています。
それは特に、王朝時代、士族しか持てなかった家譜(系図)や門中制度の広がりに象徴されるでしょう。あくまで個人的な見解ですが、近代の農民が士族文化への憧れという動機で馬勝負に肩入れしたのではないでしょうか。また、屋取農民(帰農士族)がかつての境遇(王朝時代の士族の身分)をしのぶ題材として馬勝負に精を出したとも想像出来ます」
 中国から伝わった旧暦3月から4月頃に行われる祖先供養、清明祭は18世紀後半に首里王 府の公式行事となり、その後、首里の地頭家へ奉公に出た地方役人の子弟や帰農士族たち の手で地方へ普及した。競馬も同じように近世王朝期から士族文化として地方へ広がり始め、近代にはいってその文化に憧れを抱く農民の手で飛躍を遂げたのかもしれない。

〔引用ここまで〕

※大正中期の砂糖相場の高騰とその後のバブルの崩壊は、沖縄農業がすでに日本の経済の枠にきっちりと組み込まれていることを意味し、それはンマハラセーに興じた庶民にも陰に 陽に影響を与えていたのだろう。石炭が沖縄にも輸入され首里三箇には最盛期、50余の酒
 屋ができ、路上に石炭の燃え殻が廃棄された。そしていつしか崎山馬場も消えていた。
 今回、いろいろな出来事があった。当山屋取(トーヤマヤードゥイ)のヒコーキ小の馬主、与那嶺小(ユナンミグヮー)とも親交のあった隣村、西原小(ニシバルグヮー)の屋取集落、仲程屋取小(ナカホドヤードィグヮー)仲程家の子孫、僕の友人の仲程通博くんとも、約30年振りに彼の携帯番号を調べ話をすることができた。

 「ある本を読んでいると、いきなり君の家のことがでてきてさぁ~」と言うと「ヒコーキ号だろう僕も読んだよ、小学校の頃にタンメーがよく話をしてくれた」 と言っていた。(高校の頃、当時90代の寡黙な彼の曽祖父のことは憶えている。後年お亡くなりになった時の葬儀では紅白の饅頭を頂いたことも記憶にある。100歳前後であったか・・・)彼は続けて「本部猿ムトゥブザールにも仲程屋取は出てくる」と語った。本部朝基(もとぶちょうき)、首里赤平、本部御殿の三男、無頼で天才肌の空手家、俊敏なのでサールというあだ名、で呼ばれた、京都で街頭の拳闘大会に飛び入りし、外人レスラーに頭上に差し上げられるが、投げつけられるその刹那、相手の顎に蹴りを決めて勝ったという伝説の逸話が有名)その本部が一時期逗留していたという 事なのだろう。私事にわたるが、彼に僕たち夫婦の結婚披露宴で僕の友人代表挨拶を務めてもらった。好漢である。

 な~んかいろいろあって、古い首里の街が時折見えたりして、新しい感覚の生活が始まった
ような気もしている。  (あの世にも随分知り合いが増えてきた・・・)
 お~しまい。

附 録 研鑚その後

※沖縄に猿はいないのに、俊敏だからとサールーという愛称をつけたり、飛行機はまだ飛んでないのに(知識としては知っていても)ヒコーキと命名する・・・先人のそんな感覚を愛しく思う。
最後までお読み下さり有難うございました。「沖縄こどもの国」のンマハラセーを応援しよう!!


附 録②

pati・pati・patiの9月のおすすめ品

pati・pati・patiの場所と営業時間と電話番号とホームページ

僕の姪っ子(妹の三女)が経塚シティの前の通りでNEW OPENしました。
絵とコピー印刷はです。

 向日葵が咲いて待ってた風の朝 H.25.8.17

暮らしの中のフォルム・ファイナル『異説・狭き門より入れ』

 

れんらく帳ギャラリーえるされむ

ラジオより流れ聞こゆる「春の海」ヴァイオリン冴えて朝は明けたり

 ラジオ体操を終えて、しばらくして、だんだんに空が白みはじめた7時過ぎ頃か、聞くともなしに耳を傾けていると、日本の正月の定番、宮城道雄の『春の海』が流れてきた。どうもヴァイオリンとのデュエットのようだった。アナウンサーの説明によれば、「春の海」は1929年に発表されたが、3年後の1932年に来日したフランスの女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーとの演奏が日・米・仏でレコード発売されると世界的に大きな反響がおこった、というものだった。(僕はそれまで琴と尺八によるごく一般的な「春の海」しか知らなかった。)


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「宮城道雄 ルネ・シュメー」 ~ここをクリック~

 僕は「ヘェ~」と思いながら、朝の冷気と『冴える』という表現がピッタリの響きに引き込まれて入ったのを憶えている。この欄を書くに当たりYou Tubeで聴いてみると曲の中間部にヴァイオリンを弦で弾くのではな く、指で弾く(はじく)部分がある、(ピチカート奏法というそうだ)もちろん琴は指に装着した爪で弾くのだが、琴の金属的な響きとピチカートの「こもった感じ、鼓でいう乙の音」の掛け合いがとても瑞瑞しく響いてくるのだ,ここをクリックして楽しんで欲しい。(ピチカートは指の腹で弦を弾(はじ)く) ヴァイオリンのパートはルネ・シュメー自身が尺八のパート部を編曲したそうだが、この「掛け合いの妙技」は彼女がこの曲の全体像をしっかりと理解した『名手』であったと素人なりにも実感させられた。

 フランス人なので、大西洋か地中海に面した小さな入り江の海を想い浮かべたのであろうが、日本の海もフランスの海と繋がっていることが妙にストンと腑に落ちたのだった。



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立春の空明けてゆく東(ヒンガシ)に 鳴かず飛び行く二羽の白鷺

(龍潭を飛び立ったであろう、白鷺二羽をみて・・・)


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 ヴァイオリンが冴え渡ったのも、白鷺が飛んでいたのも此の空間である。首里城の稜線
正面は瑞泉門、その左下が久慶門、手前は中城御殿跡(ウチの屋上より撮る)下の」写真は
スケッチのガニラン(沖縄ではそう呼ぶ)今は花は無い、淡いブルーの名も知らぬ花と2ショット



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幼子(ヲサナゴ)の輸液(ユエキ)の跡の手の甲に アンパンマンのテープを貼りぬ

    「痛かった?」「うん」「泣いたの?」「うん」「はい、これで大丈夫!」「アリガト」



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 「ミイちゃんの赤い鼻緒のジョジョ」歌い 島の草履で歩くは楽し

『春よ来い』  作詞 相馬御風   作曲 弘田龍太郎



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その眼にも見えるといいね かたつむり 「母の日」に来る蛍の光が

 僕のホタルの初見日はここ4~5年「母の日(5月第2日曜日)」の夕刻です。
だから、「母の日」とホタルは頭の中でセットになっています。
カタツムリにもホタルにもその日は「母の日」なのです。 



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小満(しょうまん)と芒種(ぼうしゅ)の節に入りたり 晴れ間は嬉し降りても楽し

小満・芒種(二十四節気) 琉球方言で梅雨の事を「スーマン ボースー」 と云う



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 蛍とび蝉なきはじめ気がつけば そっと散ってた月桃の花

ホタルトビ セミナキハジメ キガツケバ ソット チッテタ ゲットウノハナ



れんらく帳ギャラリー

・・・ごめんね、気付かずに・・・もっとアナタの風に吹かれていたかったのに・・・

自分を多く語らないアナタが好きでした・・・来年はきっとネ・・・・。



れんらく帳ギャラリー



 5月に描たウ■コのようなデンデンムシ、続く6月のユーレイのような紫陽花に自分でもガッカリし、これで「れんらく帳ギャラリー」なんて臍(へそ)が茶を沸かしてしまう。スキルUPしなくては!と『淡彩スケッチ入門』を購入、ヒマをみては眺めている。2~3日前、練習に描いてみた、まあまあに見えるが、テープの中心がづれている。輪郭ばかりを追っている。全体を『一発』で捉えきれていない・・・そして研鑽の日々が続くのでした。

お~しまい。


 最後までお読み下さり有難うございました。


七夕の日に    H25.7.7

暮らしの中のフォルム・ファイナル『異説・狭き門より入れ』

ナザレのイエスとフーテンの寅

寅さん


テープカッターの話から始まり、シーサー編、アーチの話と、とりとめも無く書き続けて来たが、その間、ヨーロッパの石造文化、街並みであったり、美しい橋であったり、雄大な水道橋などの多くの写真を目にして来た、又、YouTubeなどで、クラシックを聴いていると、バックに映るのは、その時代を象徴する石造建築の数々なのである。
 以前に、法隆寺の宮大工棟梁、西岡常一の世界に魅せられて、色々調べた事もあったが 石造物という硬質で計算し尽くされた、バロック音楽での通奏低音や対位法の様に人工的で 精緻な理詰めの美しさの世界に唖然としながらも動画や写真に見入っていたのだった。
 その中で、『狭き門』という現在の日本でもよく使われている言葉を思い出し、それに付いての想いを述べてみたいと思うようになった。


先ず、「狭き門より入れ」をネットで検索してみた。


回答「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見い出す者は少ない。」

(マタイによる福音書7章13~14節)


と出典である新約聖書の文言がある。
続いて
あなたの人生を考えましょう。
例えば、毎日の中で「あぁ~疲れた、ちょっと遊ぼう。ちょっとネットで時間を潰そう」
というのと、将来の為に何か勉強しよう。
どちらが広い道でしょうね? 人生毎日選択ですよね。 広い道か、狭い道か?
人生たった一度きり、何が広い道になり、何が狭い道なのか?
このように真剣に生きましょうね。

とあった。「狭き門より入れとは、事をなすときに、簡単な方法を選ぶより、困難な道を選ぶほうが、自分を鍛えるために役立つという考え」とある。
 具体的には受験や就活は(もしかして婚活も?)より高みを目指すべし!その後には経済的 にも社会的にも恵まれた道が広がっている・・・・というものだろうし、現代日本人の多くはそう云う理解の方が一般的なのだと思う。


 そこで普段は馴染みの薄い「新約聖書」を紐解き、又、吾が愛する「フーテンの寅」を登場させて『狭き門』とは何か?『狭き門』の向こうにある神の(天の)御国(ミクニ)の事を考えてみたいと思った。


キリスト教と聖書の大胆な概略(本論を前に)

 イエス・キリストと現在一般に呼ばれているが、イエスとは当時のありふれた個人の名前で ある。キリストは『油そそがれし者』つまり聖なる人という意味である。だから、イエスが生きていた時代には、ガリラヤ地方のナザレ村出身という事で「ナザレのイエス」と呼ばれていた。
(イエス・キリストとはキリスト教の成立後、後世の人々が呼んだ呼び名である。)

イエスはキリスト教の創始者ではない、一貫してユダヤ教徒であり、ユダヤ教の刷新(律法主 義からの脱却)を求め、最後には殺された。
 キリスト教の始まりはイロイロな流れがあるが、イエスと一面識も無いパウロの組み立てた 教義をして『キリスト教』として成立した。イエス=神の地上に具現したものと考えるところがポイントで、イエスの神格化である。
 パウロは弁証法の使い手で(弁証法=哲学用語、他人との議論の技術)ソクラテスやプラトン などの同時代の地中海周辺の哲学者達の影響を多分に受けていると思う。新約聖書の彼の「書簡集(~への手紙)」は難解で理屈っぽく、粘りけが強く、イエスの「口伝」(譬え話が絶妙で 聴く人に最初にガツンと衝撃を与える)とは対照的である。(パウロはシプタヤーなのである。)
 パウロは「キリスト教」のオルガナイザーであると僕は思っている。


 新約聖書はイエスの言行録ではない。イエスの死後、ユダヤ教ナザレ派(イエスの教えに参 同する人々)によって語り継がれた物語を、それぞれのグループ(セクト?)の人々がそれぞれ に書き綴った「宗教文集」である。パウロによってキリスト教の教義が固まった後に、現在の形に編集され『聖書』と呼ばれた。イエスの死後400年後の事である。
 四っの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)、それに続いて「使徒行伝」そしてパウロの書いた数十の書簡集、最後に有名な「ヨハネの黙示録」がある。
 四福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカによる福音書は共観福音書と呼ばれ、ほぼ同じ事柄 が同じ順序で書かれている。

狭き門


『狭き門』とはなにか?

 「狭き門より入れ」という言葉は先に上げたマタイ伝7章が有名であるが、(共観福音書)ルカの当該箇所の文脈から言えば、エルサレムの都を指差しながら「狭き門より入れ」と言われた事になる。エルサレムは周囲を堅固な城壁で囲まれた要塞都市で、城壁の門を通らなければ 中には入れない。現在は8つの城門が残っていて、そのうちの幾つかは旧・新約聖書の記述 にその名前が確認できる。
 正面は最も荘厳な門で「黄金門」と呼ばれている。一番狭い門は「糞門」(ふんもん)あるいは「不浄門(汚物門)」と呼ばれた門である。糞門の名称はネヘミア記(旧約)にも見られ、ゴミを焼却するために神殿からヒンノムの谷へと運ばれたことに因んだとされている。エルサレムの南側の一番標高の低い場所に位置し、当時は人やロバがやっと通れる程の小さな門で、位置も図の箇所ではないかと推測されている。ビザンチン時代に移築された写真(1940年代)が ある。
[上]は城外からの外観、[下]は内側から見た城門出口である。



 糞門はエルサレムの都で最も低い地点である事は先にも述べたが、加えてその門の外には 右手にキデロンの谷、左手にヒンノムの谷という深い谷が広がっていて、ありとあらゆる汚物 が投げ捨てられ、その谷の周辺には重い皮膚病や心の病を病む人々が追いやられて生活していた。またエルサレムの城内でも汚物門のまわりの地域は、羊飼い、食肉業者、皮なめし職人など汚れた職業として定められ、これらの人達が専ら出入りする門としても糞門は用いられていたのだと思われる。
 この様な、この世の弱者が通る門が糞門(不浄門)である。こうした門はエルサレム以外でも 石垣で囲まれた街であれば必ずある。

 自らの汚れなさや、正しさを誇る者達は、黄金門やヘロデ門を用いたであろうし、ローマの軍隊は宿舎のすぐそばのダマスコ門を用いている。一方、不浄門は貧しい者、汚れの烙印を押された者達が、腰をかがめ、小さくなってくぐる。

 「狭い門から入りなさい。しかし、その門は命(天の御国)に通じるのだ」と、イエスは言った。

「その門をあなた達は通りなさい、腰をかがめ、謙虚に、そして差別され尊厳を脅かされている人達と肩を並べて・・・・」世の誉れ、地位や名声、富に勝る価値にまだ気がつかないのか!
と譬(たとえ)て言われたのかもしれない。

エルサイム
現在のエルサレム


 僕は、「男はつらいよ」シリーズの主人公、フーテンの寅が好きである。
 {キリスト教」と「イエス・キリスト」の説明には多くの字数と情熱を必要とした。それに比較すると、どうしても(ボリューム)という点で付け足しのように見えるかもしれない、しかしそうではない。彼は日本人の心性(霊性ではない)に、そこはかとなく沁み通るような名セリフを数多く残している。(イエスも口伝だが、このセリフ、口上、口伝という話言葉のもつ言霊というか、何か秘密が隠されているには違いないが、現在の僕にはそれを語る力が足りない、又、寅次郎の妹、サクラの亭主、前田 吟演じる博は、草団子屋「とらや」と裏庭伝いで隣家の「朝日印刷」の職工(印刷機械工)であるところにも親しみを感じている。)


第39話「寅次郎物語」でサクラ・博夫婦の長男、青年期に達した満男と寅次郎のこんな会話 がある。

 満 男「人間は何の為に生きているのかな~?」
       ・・・しばしの沈黙・・・・・
 寅次郎「・・・・・何て言うかなぁあ~生まれてきてよかったなぁって思うことがいままでに何べんかあったろう?!そのために人間生きてんじゃねぇーか・・・」
というものだ。


ククヌトゥ 六十(ルクジュウ)59歳の僕は、死んだらどこに行くか?とか「天の御国」とかを考える事に興味は無い。
 しかし、寅次郎が言うように「あーっ 生まれてきてよかったなぁ 母ちゃんありがとう!」と思うことはよくある。そんな時僕は「俺は今、天の御国に居る」と呟くことにしている。僕の天の御国は、一月に数回、一回につき1~2分間、この世の現実にあるのだ。(我ながらいい考えだと思う。元気がでる。かのニーチェも言っている。喜び方が足りないと!)

最後に、最近感動し、又その歌風を正岡子規が絶賛したという橘 曙覧(たちばなのあけみ) の歌を三首紹介する。

   たのしみは朝おきいでゝ昨日まで無(なか)りし花の咲ける見る時
   たのしみは妻子(めこ) むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時
   たのしみはとぼしきまゝに人集め酒飲め物を食へといふ時


想えば、ナザレのイエスも寅次郎も庶民(?)であった。
孤独であった。そしてロマンチストであった。

 2000年の時空を越えて僕の霊性にイエスは訴える「まだ気付かないのか!明日の事を思 い煩(わずら)うな!空の鳥を見ろ!」と・・・・・・・・。



現在の糞門

最後までお読み下さり有難うございました。「フォルムシリーズ」は一応終了とします。とり残した「沖縄の階段」と「織柄の進化」は後日、単発、小品にて書こうと思います。
良い時代に生まれたと思いました、中世のヨーロツパでこんな文書を発表したら、多分、異端審問の後、火焙りの刑であったでしょう。皆さんも注意しましょう。

梅雨明け真近  H25.6.13

暮らしの中のフォルム③ 虹を形に・・・琉球の個性、三心円アーチ

アーチって何だろう?

辞書によれば、[建造物で、弓形に曲がった梁(はり)。半円・尖頭形・馬蹄形などがあり、窓・入り口・門・橋などに用いる。迫持(せりもち)とある。


 その昔「琉球へおじゃるなら 草履はいておじゃれ 琉球石原小石原♪」 と薩摩の侍にからかわ れたが、首里城や勝連城、中城城、今帰仁城の立派な石積みを例に出すまでもなく、県内各地に 残る石畳道や石垣、また竹富島のサンゴ焦の石垣、農家の立派なフール(ウヮーフール・豚小屋と トイレを兼用した施設)など、沖縄の建造物は石と切り離す事は出来ない。  古代ローマ時代にすでに完成された石造のアーチの技術がシルクロードを伝って、中国に入り、 中国では主に城郭都市の城門として結実し、それが朝鮮(南大門は馬蹄形アーチ)や琉球にも伝 わった。


 いつの頃からか、私は沖縄に多く見られる優美な三心円アーチという天井部が「かまぼこ型」の アーチに興味を持った。文系の私は、アーチ構造の力学的な解説や重力の方向や集中・分散等 の説明は出来ないので、現在も残っている歴史的な建造物、最近造られた新しいアーチ、現在 進行形のアーチと、その形状を収集し写真で載せる事で幼い頃からの「私のアーチへの想い入 れ」の一里塚としてみようと思ったのである。


アーチの基本型 単心円アーチ


[上]沖縄自動車道橋脚部(南風原町大名)規模の大きさにおいても、連続性という点でも、他を 圧倒する県下最大のアーチ橋 [下]若杉保育園園舎(首里大名町)アーチの連続は幾何学的 な美しさがあり、スペイン瓦の屋根とマッチして夢のあるエキゾチックな雰囲気を醸しだしている。




三心円アーチとは?

 大きな1個の円弧を天井部として、2個の小さな同大の円弧が重なって、左右両面の壁と繋がる形状、これが三心円アーチと呼ばれるもので、大きな円弧と2個の小さな円弧の大きさの割合 いによって、2つのタイプに分かれる。[上]をAタイプ[下]をBタイプとしよう。




先ずAタイプ  (注意深く見ないと、単心円に見えてしまう。)

上之橋(ウィーヌハシ) 首里当蔵町と赤平町の境、真嘉比川中流域に架かる現役の石橋。 その200M下流の下之橋(シムヌハシ)も同じく現役の石橋だが、直角に近い湾曲部にある為、 他家の屋敷に侵入しなければ撮影できなかったので載せられなかった。


天女橋(テンニョバシ)1502年 龍潭上部(南側)の円鑑池(エンカンチ)の中島にある弁財天堂に架かる。日本百名橋の一つ。




[左]円覚寺左腋門 [右]下川原橋(シチャーラ)沖縄自動車道那覇インターの北、県道との谷間にある。第2尚氏の最高神君、聞得大君(チフィジンウドゥン)の叙任式への斎場御嶽 への道にあり、島尻東方への宿道(国道)上の橋でもある。よく見ると左右の壁は下に狭まり馬 蹄形にも見える。金城ダムの上流部、安里川の上流、弁ヶ嶽のふもとにある。


[左]ヒジ川橋 首里城から南苑(識名園)への道にある。金城ダム敷地内、ダムで新しく水路を造った為、現在川床に水は無い。[右]金城ダム(上池水路)2001年竣工。


Bタイプ   数としても多く、典型的な三心円アーチ 

天井のアーチ部がカマボコ型。アンパンマンの友人、食パンマンの頭部に似て、ゆるやかで優 美な曲線である。琉球を代表するフォルムの一つだと思う。なお、ここでは写真掲載出来なかっ たが、県内各地に残るウヮーフールの屋根部分もきれいな三心円アーチである。

[上]安谷川御嶽(アダニガーウタキ)石碑などもあり、琉球王府でも格式の高い拝所の一つ、 アーチ上部の宝珠があることがそれを物語っている。前の道は、首里城・久慶門を起点とする 本島中北部への宿道(シュクミチ、国道) [下]崇元寺石門 三連アーチの安定感!




龍淵橋[リュウエンキョウ] 1502年頃 Aタイプにあった、天女橋のある円鑑池(エンカンチ)からのオーバーフロー(溢れた水)が龍潭へ 流れ込む短い水路。[上]は龍潭側から、[下]は東から見た龍淵橋、以前は石彫りの欄干があった。

 余談だが、円鑑池に中島があり、そこに弁財天が祀られている。琵琶湖には竹生島があり、 弁財天がある。東京上野、不忍池にも中島があり、弁財天がある。長野・野尻湖には琵琶島 があり弁財天が祀られている。


[左]首里城の実質的な正門、歓会門  [右]首里金城ダムドデカイ三心円を見て嬉しく なる、デッカイフールだ!と一人で笑った。


カド丸アーチ 

中の毛(ナーカヌモー)西側土手部分。これは天井部が直線であるのでカド丸アーチと名 付けたが、この連続形の美しさは三心アーチ由来のものと直感した。金城ダムのような大型工 事ではなく、土地買い上げと、アーチトンネル設計・施工の利益の相関を第一義とする公共工 事では、アーチの数だけ同じRの円で切っていくほうが経費の面でも安く仕上がり、時間的にも 早く仕上がるのだろう。(素人の推測ではあるが) 前方の県道が拡幅される事になり、一時は ナーカヌモーも狭くなるかとの危惧もあったが、自治会長の宮城修氏と町内の有志は県の土木 課と粘り強く折衝に当たり、歩道部の壁をアーチ式のトンネルとしトンネル内の採光を確保し併 せて上部のナーカヌモーの庭(ウナー)も損なうことなく問題を解決したのである。 (「首里かわらばん」より)


[中之毛、ナーカヌモー] テェーラ、ウフナ(平良・大名)の中央に位置することからの由来とされる。旧暦7月16日に恒例 として催された沖縄相撲大会は全県下から名だたるシマトゥヤー(相撲取り)達が集い、大変な賑わいであったという。(『首里の地名』久手堅憲夫著 より) 


  付 録   最後に龍潭と、そのオーバーフローの世持橋(横積型アーチ) 




 今回は、写真の多さと「三心円アーチ」をどのように説明しようか?この数の写真をどのくくり で分割し、展開して行こうか?と、途方にくれる事もあった(壊れたオモチャを抱き上げて・泪目状態)。最後は得意のエイ!ヤー!でやった。出来映えはともかく、「大作」になってしま った。

 最後までお読み下さり,有難う御座いました。 次回は付録の附録で早く短く予定しています。

H25.5.8

暮らしの中のフォルム②シーサー編

シーサーの渡来、火災除けから全ての厄災から守る
スーパーシーサーへの進化まで

僕は何時ごろからシーサーの事を考え始めたのだろう?ここに1枚の写真がある。龍潭の畔に赤瓦の屋根に赤レンガの壁の博物館があり、その玄関前のシーサーに乗った4歳頃の僕がいる。おそらく其のころから僕の心の中に「シーサー君」が棲み始めたのかもしれない。

中国から獅子文化(?)が琉球に伝来してから500年以上経っている。1470年頃、首里城の瑞泉門の両脇に阿吽一対の石獅子が設置されたという記録がある。

暮らしの中のフォルム(型)

これは歓会門前のシーサー(現在)である。歓会門は実質的に首里城の正門であり、これをくぐり右に石段を登った所に瑞泉門がある。脇に龍樋があり、龍の口から水がほとばしっている。

*この復元されたシーサーは作者が抽象彫刻を専門とする方で破壊前のものとは面影がだいぶ異なって、現代的にデザイン処理された形となっている。と首里城正殿大龍柱の復元監修をされた琉球大学名誉教授、西村貞雄氏から以前お聞きした。

シーサーは先ず首里城内に伝わったのである。獅子とはライオンであり、伝わった先の中国にもライオンは生息していない(当時)、遠くシルクロードを伝って地中海文化のフォルム(意匠)としての獅子が東シナ海を渡り琉球に伝わった事になる。

LION :哺乳網ネコ目ネコ科ヒョウ属に分類される。壁画などから15,000年前にはヨーロッパ全域にも分布し、5,000年前には少なくともギリシャには分布していたと考えられる。(WIKIPEDIA)


石獅子(村獅子として首里城内から村落共同体への伝播)

暮らしの中のフォルム(型)

上の写真は与那原交差点近くの県道沿いの村獅子、あと1つは佐敷寄り、与那原・板良敷の石獅子


 『球陽』によると1689年に東風平の富盛(ともり)に度々火災が発生した。首里王府が差向けた祭王瑞という風水師の見立てで、富盛村を見下ろす八重瀬嶽がフィーザン(火の山)だという事で、その山に向けヒーゲーシ(火返し)の石獅子を設置したら火災は収まったという記録がある。富盛の石獅子を初代として他の村々にも石獅子が伝播していった。与那原の2つの獅子は八重瀬嶽が南西にあるのでその方向に向いており、糸満照屋の獅子は同じ理由で東南東を向いている。その他の獅子(南部以外)は 向きについては必ずしも八重瀬嶽にこだわりは無いと思う。
西原の獅子は運玉森を向いており、西原・池田交差点信号脇の門柱にいる獅子も門から正面を向くことなく右30度の運玉森を睨みつけており、その家の当主のこだわりにはある種の感慨を覚える。

暮らしの中のフォルム(型)

これは沖縄戦での富盛の石獅子の写真。八重瀬嶽を向いている。1945年6月12日撮影とある。(6月23日は日本軍の組織的戦闘の終結の日である。沖縄慰霊の日)八重瀬嶽は標高151メ-トル、運玉森とほぼ同じ高さ、嶽といっても山ではなく、大度や仲座方向から緩やかに盛り上がり富盛手前で北向きに急崖をなしている。
これは攻撃前の着弾観測兵なのか、左から2人目の双眼鏡の角度から八重瀬嶽の中腹に日本軍の重火器の銃座があると思われる。獅子との距離約500メートル。富盛の石獅子は現在木立の中で静かに佇んでいる。

その他、●宜野湾市喜友名の石獅子群(7基) ●豊見城市真玉橋 ●大里・大城 ●大里・南風原●佐敷・富祖崎 ●玉城・百名 ●玉城・富里 ●知念・具志堅 ●知念・知念 ●南風原・兼城 ●南風原・志多伯 ●南風原・本部 ●北中・喜舎場 ●西原・呉屋にも村落石獅子はあるが、その姿形はいずれも稚拙というか素朴というか富盛の獅子のような造形的にも立派なものではない。最古で最大の富盛の石獅子であるが、高さ141センチ、長さ175センチである。
サイト「神社探訪・狛犬見聞録」でそれぞれの獅子が見れる。


村落共同体から個人への伝播
屋根に登ったシーサー!
戦後、特に復帰後門柱にも登った元気者のシーサー多数!

明治22年、当時禁止されていた民家の赤瓦使用が解禁になった。赤瓦家屋の普及とともに、全ての厄災から守るスーパーシーサーとして装いも新たに屋根に登って再デビューしたのである。シーサーが屋根に登ったのは、わずか130数年前からで、門柱に鎮座は復帰後がほとんどだ。

暮らしの中のフォルム(型)

これらは、首里当蔵町、儀保町、山川町、真和志町のシーサー達である。僕の小・中・高時代、1960~1970年頃は、素焼き赤瓦に白い(ほのかに黄みを帯びた)漆喰の屋根に瓦葺き職人から施主への感謝の贈り物としてのシーサーが主流であった。瓦を割り漆喰で造られたシーサーは上手下手もあろうし、そもそも芸術品などとは誰も思っていなかったのでかえってその素朴さが際立っていて、コワイのや、どこかトンマなのや色々あってみんな良かった様に思う。
本土復帰に伴い観光土産の焼き物のシーサーも出てきた、土で造るのでより表情が精緻になり、鬼気迫るものや芸術性の高いものまで色々だ、そうなると値段という厄介なものもでてきて・・・まあ君たちのせいではないが、シーサー世界には上下関係などあってはいけない!君たちのその屈託の無さが、厄災を跳ね返してきたことを忘れている人間はバカだ!一方で、手を上げたりいろんなポーズをとるトッポイシーサーまで出てきた。7番目の奴などマンガ『おそ松くん』のニャロメをモチーフにしたのではないか?と思ってしまう。戦後普及したセメント瓦屋根のシーサーは見たことがない。セメント瓦に赤いペンキを塗って赤瓦と呼ぶのは止めて欲しい。スペイン瓦、フランス瓦等もそれなりに美しい。
沖縄の人気キャラクターとしてその地位はゆるぎないものになったが、オチャラケてばかりいる場合ではない。

日本や沖縄が『背に腹は替えられない』から『背に腹を替えてでもやり抜かねばならぬ時』が来たなら、その時こそ君たちの出番だ!ウチナーンチュの魂が試される時でもあるからだ。
では又、次回③「虹を形に・・・琉球のアーチ(単心円・三心円)」にご期待あれ!

H25.3.4

暮らしの中のフォルム(型)

あっという間に1月も終わった。仕事の忙しい月だったが、「みどり風通信」の構想は練っていた。タイトルはカッコイイのだが・・・・まあ始めてみよう。

暮らしの中のフォルム(型)

 これは私がいつも使っているセロハンテープ台である。正式名称「ライオン事務機 テープカッター 一連式 ホワイト」という。最初に見た時「アーッ デンデン虫だ!」と叫んで、そのシンプルな形状。「ホワイト」という名称だが、見ての通り緊張感みなぎる「純白」ではなく灰色に少し黄みを帯びた、やさしい中間色の楚々とした居ずまいにナールホドと感心したのだった。

 そして一つの実験を試みた。2歳3ケ月の奏(かなで)に「これな~んだ?」とオイラ。
奏「?????」

 次に「かたつむり」の歌をハミングしながら「これな~んだ?」とオイラ。
奏「??○・△×\\//???」

暮らしの中のフォルム(型)

↑これを作って見せた。ここでハミングから歌詞を付けて歌いながら「これな~んだ?」
デンデンムシムシ カタツムリー オマエノ メダマハドコニアルー ♪♪と優しくオイラ。

奏「でんでん虫!」と元気よく答えたのである。

紙で作った目玉を、幾何の問題を解く際の補助線の役割にして、さらに「かたつむり」の歌を効果音にしたら2歳児でもこのカタチからデンデン虫を連想できた事になる。

You Tubeにもいろいろな「かたつむり」の歌がアップされていて、それぞれに異なる形のデンデン虫のアニメがある。デフォルメ(形の誇張や省略)されシンボライズされた、いろいろなデンデン虫を見て来ているので、この鉄で出来た事務機をデンデン虫と認識できたのだろう。もし、本物のデンデン虫しか見た経験が無かったら、この発想には到らなかったのだろうとも同時に気ずいた。

暮らしの中のフォルム(型)

↑ これも、機能的に出来たテープカッターではある。重量感と安定感は充分いいのであるが・・・・・これからは「ニヤリ」と笑える精神的な「ゆとり」や飛び石伝いに次々に連想を拡げて行く柔軟な発想は出て来ない。

良いフォルムとは「ゆとりであり柔軟な心を呼び覚ます魔法の杖なのである!」

暮らしの中のフォルム(型)

↑ ちなみに、こんな物もある。
左からテントウ虫のヘアブラシ、蝶のハサミ、青虫の櫛、蜂の爪切り。この延長線上に先のテープ台もあるのだろう。パソコンで検索すると「熊さん」のテープ台やニャンコのテープ台もあるには有るが、家庭では使えても仕事場ではつかえまい。仕事場が動物園になっては、面白くて集中力が湧いてこない。そのギリギリの線を狙ったスタイルがこのデンデン虫のテープカッターの真骨頂なのだろう。

デンデン虫のテープカッターのデザイン 「そのセンスや潔し!」

(フォルムシリーズは次回にも続きます。カメラを持って街にでます。)
[予告編]

暮らしの中のフォルム(型)

次回は、シーサーの話・織柄の進化・琉球の個性「三心円アーチ」・琉球の怪談ではなく階段などについて所感を述べてみたい。

メリークリスマス&ハッピーニューイヤー

メサイア演奏会

今年の『メサイア演奏会』も去った日曜日(16日)に終わった。私にとっては4度目のメサイアである。暮れの忙しいさ中の練習はつらいものもあるが、終わってみるとホッとした充実感につつまれて、いよいよ今年も暮れて行くんだ~という実感が湧いてくる。
当日は雨の予報であったが好天に恵まれた。44番HALLELUJAH(ハレルヤ)は圧巻であった。10数人の外国人の団体は立ち上がりスタンディングオベーションでそれを称えた。
終曲の53番 WORTHY IS THA LAMB THAT WAS SLAIN の最終部のアーメンコーラスは今も 耳に鳴り響いている。

おたより帳

 これは、共に暮らす奏(かなで)という2歳の孫の「おたより帳」の月替わりの扉の頁で普段は曜日や日にちを書く為のマス目が在るのだが、使用しないので白紙を貼ってキャンバスや色紙に見立て、絵や短歌などを書いている。いづれも我流であり、その時々の自分の思いが表現できれば良いと思い描いている。平凡な日常のアクセントとなっていて「おたより帳文芸」「おたより帳ギャラリー」と呼んで楽しんでいる。
 それを使って、ここ数ヶ月を振り返ってみる。

おたより帳

「歩こう 歩こう 私は元気 歩くの大好き どんどん行こう」という歌詞で、「となりのトトロ」のテーマソングで『散歩』という歌である。作詞 中川季枝子 作曲 久石 譲

お守りシーサー

 「あやかり会」とは、ありていに言えば「敬老会」であるがアンチエイジングの流行(はや)る昨今、苦肉のネーミングなのだろう。
 「若杉保育園」は首里大名町の大名馬場通りの北にある那覇市の認可保育園で130人の園児、30数名のスタッフが運営する。浦添たくしと首里大名の丘陵に挟まれ、日当たりの良い、風通しの良い住宅地に立地している。近くに大名小学校、大名老人ホームがある。

 また来年お会いしましょう。良いお正月を!年賀状に替えてお届けいたします。
GOOD LUCK!!!

首里文化祭

首里文化祭

首里の秋は10月に入って、あちこちのクラブ(自治会)から聞こえてくるチンク(鐘鼓)の音と共にやってくる。それは、11月3日、文化の日に開催される「首里文化祭」の練習の音で、各町の行列の先頭を飾る勇壮な旗頭(ハタガシラ)を持ち上部の鼓燈籠(チジンドゥールー)を揺らし舞わせる練習で「サーサーサー」の囃し?(掛け声?)と共に首里の街のあちこちから夜の7時頃になると聞こえてくる。
 沖縄でも小学校の運動会が6月に行われたりして、以前は青切りのミカンの香りが運動会を連想させるものだったが、それも無くなった。その中でチンクの音と「サーサーサー」の青年達の掛け声は確実に秋の訪れを肌身に感じさせる首里の街の風情なのである。

首里文化祭

 首里文化祭の始まりは、沖縄県の本土復帰のはるか前の昭和35年(1960年)に開催された「首里教育まつり」にさかのぼる。「児童生徒の学事奨励と若い世代の励起」を狙いとして地区内の有志によって始められた文化活動で、当時は首里の各自治会がトラックの荷台を装飾してパレードを行い審査員が点数を付けて順位を競ったようであるが、昭和53年(1978年)に名称が「首里文化祭」へと発展継承された頃から旗頭(ハタガシラ)を復元又は、新規に作製(新しい自治会)その後に婦人会や子供会の踊りの隊列、最後尾にキッチンカーと音楽ブースを兼ねた手押し車が続くという現在のスタイルが定着してきた様に思う。

首里文化祭

 昭和20年代の後半、終戦から5年以上も経ち復興の胎動が形を成し始めた頃、「首里にプールを!」という機運が高まりをみせた。
 城西小、城南小、城北小、首里中の児童生徒らは道路や自宅周辺の小石を拾いポケット一杯に詰めて学校の運動場の一角に集積するという作業を繰り返した。やがて山となった小石はコンクリートと混ぜるバラストとして使用された。大中町の田光組(デンコーグミ)が工事を請負い、破格の予算で建設されたと聞いている。
 実際に測量を行った祖慶先生(当蔵)、趣意書作りに奔走した高江洲良吉先生(汀良)、当時の水泳指導の第一人者の新垣侑(ゆたか)先生(鳥堀)の3名の先生のリードのもと、同僚教員らと首里地区住民、児童生徒等が成し遂げた実践的デモクラシーであったと思う。物の無い時代ではあったが彼らの瞳は輝いていたのだろう。

 昭和27年(1952年)首里バプテスト教会の北側(大中町)に「龍潭から水をひいてプールを造る」という沖縄初の淡水プールが完成したのである。その成功体験と「大人も子供も一緒になって一つの事を成し遂げる快感」がキッカケとなり、その熱気が後の「首里教育まつり」へと続き「首里文化祭」へと連なったのだと私は一人そう睨んでいる。

首里文化祭

 「首里文化祭」も当初は既存の20町での參加であったが首里地区の街の拡大につれて、鳥掘市街地住宅、崎山ハイツ、石嶺ひよい、久場川市営住宅、石嶺アペックス、石嶺坂道通り、大名第二団地、大名むつみ、石嶺ハイツ、石嶺みのり、たんぽぽ通り、城東ハイツ、城東、立川、城東団地、汀良市営住宅、石嶺東ヶ丘という17の新しい自治会も加えて37の自治会が結集して行われる大きなイベントに成長した。
 汀志良次(ティシラジ、汀良の古名)の獅子舞、末吉の獅子舞、赤田のミルクに混じって新しい自治会と旧来の自治会が互いに仲良く街づくりを行っているのを見ていると嬉しくてしょうがない。『伝統が創造を生み、創造が伝統を支えて行く』という言葉が琉球のオリジナリティーであり沖縄のメンタリティーであって欲しいと願うからである。

首里文化祭

 平成の首里城復元が成って20年。名前も「首里文化祭」から「琉球王朝祭り首里」という取って付けたようなヘンテコな名前になってしまった。国立公園(世界文化遺産)の首里城祭への協力も大事であろう。パレードの先頭を行く「古式行列」も無いより有った方が良いのだが、しかし!「首里プール建設」から「首里教育まつり」にそして「首里文化祭」へと発展させていった先輩達の熱いスインチュ(首里人)の心意気と魂を忘れてはいけないと思う。
 私にとって11月3日は『首里文化祭』。それでいいのだ。
 いつか「首里プール物語」を書いてみたい。

それは一枚の名刺から始まった

名刺

この玉那覇朝子さんの名刺は、今年5月末頃注文をいただいたもので、NPO法人沖縄語(うちなーぐち)普及協議会講師という肩書きに興味が湧き、完成品を取りにいらした時に色々お話しをうかがった事を憶えている。その歯切れの良い独特のテンポの語り口(僕に話すのは全てウチナーグチの敬語でした}から「クンチョー サンカンチュ ヤルハジ(この方は三箇のご出身に違いない)」と思った。(サンカ→首里三箇、赤田・崎山・鳥堀)
偶然、当日、納品したばかりの、『古都首里まちづくり期成会会報第2号』の残部があったので「とても面白いので読んでみて下さい」と一部お渡しした。 2~3日して電話を戴き「とても良い資料で勉強になった。ありがとう」という事だった。打てば響く、感度の良い方だなぁ~と印象はより強くのこった。

新聞

10月の初め頃、琉球新報カルチャーセンター館長の崎濱秀憲君(首里高同期)から電話があり、「今回、新しく沖縄語(うちなーぐち)講座を開講を予定しているが、講師にふさわしい人物はいないか?」というのだ。僕は即座に「ピッタリの人がいる」と答え、話はトントン拍子に進んで行った。
   僕が彼女を強く推薦した理由は、なんといっても言葉が立派なのが一番だが、琉球民謡コンクール最高賞の経歴から「琉歌」の世界にも通じていて、これまでの沖縄語を講釈する高齢の男性とは異なり、エンターテナーの側面も併せ持つ彼女のパーソナリティーにある種の”感動”を憶え、僕自身の直感を強く信じたからである。(沖縄語を学ぶことは、単に流暢に話せる事に留まらず、先人達のスピリット(魂)とセンス(感覚)を理解し個々人の現在の生活をより豊かにするものでなければ意味が無いと僕は思う)

新聞

 玉那覇さんは、10月20日から8日間の日程でトルコに外遊中なので10月24日掲載の新報カルチャーセンター受講生募集の広告記事は未だ目にしていない。旅立つ前日まで、大急ぎで資料を作成してみどり印刷のファックスで送り、写真は僕の娘がスマートフォンで工場(コーバ)に「ふすま」を立掛け、それをバックに撮影し、直接センターのPCに送信したものである。  彼女の理解力の高さと、スピード感も見事だが、先の崎濱館長の良質のセンスがその後ろ盾に有る事は言うまでもない。  この一連の記事をよんで、はじけるような玉那覇朝子さんの笑顔を早く見てみたい。

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