みどり風通信│那覇市首里にある印刷会社「みどり印刷」

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【27】『祝出版!『折々の記』ーたつやぁのはなしー 稲福達也著』

 友人や知人に会って「毎日何をしている?」と声をかけられると、自分では悠々自適のつもりではあるが、”晴耕雨読”とは口幅ったくてとても言えないから「雷様ではないが家でごろごろしている」と応えることにしている。実際は、そうしていると妻のカミナリがゴロゴロと落ちてくるが‥‥。

第三章 すさびの記より「毎日何をしているか?」より


 日曜日を除く毎日、朝6時30分からみどり印刷前の路上でラジオ体操を二人でやっている稲福達也さんは城西小学校・首里中学・首里高校の3期先輩であり、同じ地域で大きくなった兄貴分である。

 その彼がこの度「本」を出版したのだ!!  全200頁‥‥‥『折々の記』 ーたつやぁのはなしー

今回はその本の紹介が主題である。

 軽妙洒脱 心に残る話し!

 県内屈指の進学校、昭和薬科大学附属高等学校の前校長の話を多くの人に読んでほしいと卒業生達が企画・刊行した本。


日々の心の糧になる112話!


「自由な気風の中で、夢や目標を抱き、その実現に向けて自らの意志で勉強する」

「子ども達が将来、社会の一員としてどうあるべきか」を踏まえた教育をユーモアを交え実践してきた稲福さん。


 本書は、彼が校長時代に書いた「校長だより」、日記がわりに書かれた「すさびの記」をベースに一冊の本にまとめたものです。


 教育関係者・職場のリーダー・子を持つ親に見て欲しい「人を育てる人」の役に立つ内容になっています。41年間の教育者人生において、どのような思いで教育を行なってきおたのか、そのエッセンスに触れてみて下さい。

~(株)沖縄教販 沖縄かりゆしショッピングプラザより~


6月10日、昭和薬科高・食堂で卒業生約200名が集い出版祝賀会が催された。

第一章 たつやぁのコラム

 『校長だより』29話

 生徒保護者向けに毎月発行される『学校通信』に『校長だより』としてコラムを書いた。平成20年の校長就任以来8年間で計88回になった。


走れよメロス/学校の自然/心とこころ/色のはなし/不思議な魂/おしゃれ論/言いにくい言葉/
校舎が消えた日/コンニャクの話/窓から見えるもの/メールと手紙/歌を忘れたカナリア/十五の君へ/
でんでんむし/ニュースを聞きながら/大和言葉/食欲の秋/漢字の楽しみ/学びの種/失敗と成功/
桜とタンポポ/机の上/人のために祈る/集団の規則をどう考える?/ひび割れ壷の物語/
Good-bye Wave /鈍行列車/校長の始業式・終業式ジョーク


第二章 たつやぁのしごと

『校長のはなし』

 季節が巡ってくるように、同じ学校行事が毎年繰り返される。そのたびに校長も同じような挨拶を繰り返えさなければならない。 嗚呼!

「神様が味方する人」・行事挨拶など28話


第三章 すさびの記

『筆のすさび』

 日記を書く習慣はない。書こうと思ったことは何度かあるが、続いたことがない。しかし普段から雑誌や新聞などで心に響いた話しはスクラップしてあるので、それを整理しながらついでに思いついたことを書けば日記代りにもなり、なにより惚(ぼ)け防止になるかもしれないと考えた‥‥。

「毎日何をしているか?」など日記風エッセイ55話



私の選んだ二遍の『花のエッセイ』

■桜とタンポポ

 沖縄では一月からカンヒザクラが咲き始めるが、春の訪れとともに桜前線が日本列島を北上して、全国各地の桜の名所がテレビや雑誌で紹介されるようになる。そんなテレビや雑誌を見ると、、桜のことでこれまで知らなかったことに出会うこともある。
 例えば、桜の花見では、古くは花と葉が一緒に出るヤマザクラを楽しんでいたらしい。現在のように花だけが先に咲いて華やかなソメイソシノが好まれるようになったのは、華美な花をストレートに好む西洋の影響で、明治になって外国文化に触れるようになってからだという。また、日本人は、三分咲き、五分咲き、八分咲き、あるいは花の散り際であっても花を楽しむことができるが、外国人は満開の花を最高のものとしてそれしか見ないし、そもそも桜について外国人の関心は、花より実のチェリー(さくらんぼ)の方にあるという話しもあった。日本の場合は「なんとか桜」というように花に興趣が注がれているが、外国では「チェリーブロッサム」(さくらんぼの花)に過ぎないという訳である。この他にも、桜の記事を読んで「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」ということわざも知った。これは、桜と梅の剪定法(せんていほう)を教えたもので桜は枝を切るとそこから腐りやすくなるのできらないほうがよく、梅はえだを切らないとむだな枝がついて花が咲かなくなるということらしい、個性が違うと育て方もちがうのだ。


 さて、春を彩る花の代表はやはり桜だろうが、ある雑誌に「2月・誕生日の花と短歌」というコーナーがあって、そこでは歌人の鳥海昭子(1929~2005年)のタンポポの句が紹介されていた。


季外(ときそ)れて咲くタンポポの小ささよ
それでいいのよそれでいいのよ


 季節外れで咲いた小さなタンポポを見つけたまなざしと、どう生まれたかより自分らしくどう今を精一杯生きるかが大事だから、それでいいのよそれでいいのよ、と語りかける言葉が温かく快い。
 吹く風も光輝くような春は近い。清々しく澄みわたった青空に映える華やかな桜を眺めるのもいいが小さなタンポポの短歌のように、足下で人知れず咲く小さな花にもまなざしを向けることができる人でありたい。


(No87/2016年・2月号)


■ ひび割れ壷の物語

 水汲み人足(※力仕事をする人)は、二つの壷を天秤棒でかつぎ、ご主人様のために小川から水を運びます。その壷のひとつにはひびが入っていて、もう一つの完璧な壷は一滴の水もこぼさないのに、そのひび割れ壷は、人足が水をいっぱい入れてくれても、ご主人様の家に着く頃には水が半分になっているので、いつも自分を恥じていました。

 二年が過ぎたある日、すっかり惨めになっていたひび割れ壷は、川のほとりで水汲み人足に言いました。

「私は自分が恥ずかしい。そして、あなたにすまないと思ってる」
水汲み人足は、ひび割れ壷を気の毒に思い、そして、言いました。

「これからご主人様の家に帰る途中、道端に咲いているきれいな花を見てごらん」

 天秤棒にぶら下げられて丘を登って行くとき、ひび割れ壷は、お日様に照らされ美しく咲き誇る道端の花に気づきました。花は本当に美しく、ひび割れ壷はちょっと元気になりました。しかし、ご主人様の家に着く頃には、いつものように水を半分減らしてしまった自分を恥じて、水汲み人足に謝りました。すると、彼が言いました。

「道端の花に気ずいたかい?その花が君の側にしか咲いていないのに気づいたかい?僕は君からこぼれ落ちる水に気づいて、君が通る側に花の種をまいたんだ。そして、君は毎日僕が小川から帰る途中水をまいてくれた。君を知ってから、僕はご主人様の食卓に花を欠かしたことがない。君があるがままの君じゃなかったら、ご主人様はこの美しい花で家を飾ることはできなかったんだよ」



 この「ひび割れ壷の物語」は、友人からメールで送ってきた話である。いい話に出会うとその話を誰かに伝えたくなるものだ。メールには「私たちはみな、それぞれユニークなひび割れを持っています。そのひびを責めるのではなく、そのひびのために花の種をまくことが大事です」という添え書きがあった。私は、返信メールに「天のわが材を生ずる。必ず用あればなり(神様が私を作った以上、きっと何かの役に立つはずだ)」という中国の詩人の言葉を書いた。


最後までお読み下さり、ありがとうございました。今号は『折々の記』の紹介と広告宣伝が主題でありました。現在、県内主要書店・郷土本コーナーで平積み発売中です。直接お手に取り、お気に召せばお買いあげ下さいますようご案内致します。

イサトゥーは自由自決の鎌がある   和男

(ウチの庭で2cm足らずの幼いカマキリを捕らえたのは昨年の秋であったか‥‥指でつかもうとすると前脚の鎌で僕を威嚇する。立派なものである、その刹那カマキリと僕とは対等になる。一寸に足らずとも命あるものには魂が宿るものだ。) 

※琉球方言イサトゥー=カマキリ


6月23日「沖縄慰霊の日」、城西小学校全児童はこの歌を斉唱します → ここをクリック

2017/6/22

【25】『琉球語讃美歌附箴言』新登場


 私の所属する那覇混声合唱団の創立55周年記念演奏会が3月27日(日)、パレット市民劇場で開催された。500席近くのシートは満席で立ち見もでる盛況であった。
 約10ヶ月振りの「みどり風通信」の更新だが、その間いろいろあったが、特段の事件があった訳では無く、単なる(中だるみ)であったのだろう。

 今回は趣向を変えて当日の模様を録音したCDをお聴き下さい。


公演プログラム


 第三部の混声合唱とピアノのための『こだまでしょうか』では、合唱に先立ち詩の朗読が有りそれに続いて歌うという演出がなされ、歌う我々も大いに興に乗ったものになりました。
 とくとお聴きください。
(司会・朗読の久場勝美さんはベースの久場政邦さんの奥様で、ソプラノの久場ゐのりさんのお母様でもあります。もと本合唱団員)


CD作成 中地弘光(ベース)

第三部 混声合唱とピアノのための「こだまでしょうか」 プログラムより抜粋

作詩の金子みすゞ(1903~1930)は、大正末期から昭和初期にかけて活躍した日本の童謡詩人である。26歳の若さで自死するまでに500余編もの詩を綴ったとされている。自然とともに生き、小さな命を慈しむ思い、命なきものへの優しいまなざしが、金子みすゞの詩集の原点とも言われている。
 作曲の石若雅弥(1981~)は、大阪府出身の新進気鋭の作曲家で、指揮者、ピアノ奏者とし作曲の石若雅弥(1981~)は、大阪府出身の新進気鋭の作曲家で、指揮者、ピアノ奏者として活躍している。これまでの出版楽譜は40冊近くに及び、学校で音楽教材として採用されたりしている。


Ⅰ 不思議

金子みすゞは、明治36年・1903年に、山口県の漁村、仙崎に生まれました。
幼いころから何にでも興味をしめし、普通なら見過ごしてしまうようなささいなことにまで
関心をもつ、好奇心旺盛な少女でした。その様子は、周りの大人からは少し変わった子供のように見えたかもしれません。


Ⅱ こだまでしょうか

家が本屋さんだったということもあり、みすゞは本に囲まれて育ち、読書にあけくれる毎日でした。
そしてそれらの本の中の様々な世界に、思いをはせていたのです。


Ⅲ おさかな

みすゞのまなざしは、普段の食卓に並ぶような、さかなのいのちにも向けられます。
彼女の作品からは、生命を大切にし、慈しむやさしさが感じられます。


Ⅳ 葉っぱの赤ちゃん

みすゞは結婚ご、一人の女の子を出産します。そして、その子に精いっぱいの愛情を込め育てました。
きっと自分の作品を、子守唄のように語っていたことでしょう。


Ⅴ 私

みすゞは晩年、夫からの暴力や、重い病に苦しめられることになります。
そして、幼い子供のことを思いながら、ついに自らの命を絶ちます。26歳の若さでした。


生前のみすゞは周囲のあらゆる物の中に自分の存在を感じていたようです。
今、私たちは、彼女の作品の中から彼女の魂がすぐそばにあるかのように感じる事ができます。
詩の世界の中で、みすゞのいのちはずっと生き続けることでしょう。



金子みすゞ記念館→ここをクリック



お久しぶりです。今回は那覇混の演奏会に絞り、また、第三部の金子みすゞをUPしておとどけしました。
20~30代の人達は小学生の頃の教科書で学んだそうで知っている人がおおくいました。中高年では知っている人の数こそ少ないものの「詳しく」知っている方とも出会いました。
また遠からん日に【27】をお届けできるよう精進します。

雨あがる どこ吹く風と鯉のぼり   和男

2017/6/10

【25】『琉球語讃美歌附箴言』新登場

 トップページの6つあるボックスの一番右側のボックスは永らく「準備中」であったが、この度仲座 巌(なかざ いわお)さんの労作『琉球語讃美歌附箴言』として復刻された。讃美歌の文字による琉球語表記のみならず、オルガン伴奏と宮城三代さんというソリストによる歌唱が同時に聴く事ができるという画期的なものに仕上がっている。
 上の写真は先年、仲座さんが製作された5枚のCDで「みどり印刷」のHPに載せた事により、より多くの人が新垣信一作の「琉球語讃美歌」に触れて戴けたらとおもう。(沖縄のキリスト教史に関心のある方、また琉球語(ウチナー口)を研究しておられる方に広く来て見て聴いていただきたい貴重なサイトだと思う。


『琉球語讃美歌概説』より抜粋

 (キリスト教の日曜)礼拝は祈祷・讃美・聖書朗読で始まるが、その頃は日本語の聖書及び讃美歌が使用され、琉球語の通訳を付けたり講話や説教が琉球語でおこなわれたりした。
 明治20年西原間切末吉村(現那覇市首里末吉町)で出生した新垣信一は1907(明治40年)沖縄県師範学校を卒業し(同期に宮良長包)1909(明治42年)12月に中部農村の津覇尋常小学校(現中城村津覇小)の訓導となった。首里メソジスト教会員として旧約聖書箴言(しんげん)の要句を琉球語に訳し生徒等の教導に尽くしていたが、讃美歌も琉球語に訳し、自ら「琉球語の聖句並びに讃美歌帳」を編纂した。
 1914(大正3)年4月に津覇日本基督伝道所(教会)を設立、その教本として「琉球語讃美歌及箴言」を出版、1930(昭和5)年2月に改訂して『琉球語讃美歌附箴言』を編纂し、これが戦後も数多く復刻、抄録され、琉球の人々に親しまれてきたものである。琉球語讃美歌60篇琉球語箴言140条である。今日では信徒それぞれの信仰の思いを琉球民謡の節にのせて歌う民謡讃美歌にも展開されている。
 琉球語讃美歌は、H.B.シュワルツ宣教師のもと、伊波普猷、伊波普成(普猷の弟、新聞記者)、浦添朝長氏らにより15篇が訳され、全体で75篇(実数65篇)である。 引用終わり。

 沖縄におけるキリスト教信徒は当初「本土出身者層〈寄留商人・公務員そして、その子弟〉」から「首里や那覇の旧士族層」(明治末)そして「地元の婦女子層〈地方の農村〉」と拡がりを見せるなかで『琉球語讃美歌附箴言』は広い階層と地域で愛唱・愛読され沖縄におけるキリスト教伝道に大いに貢献した。


首里教会・伊江御殿の庭(現存)右端にブール夫人〈オルガニスト〉


「琉球語讃美歌」の特徴

 先ず、この讃美歌にはシザという語が(1番・6番・7番・8番・69頁)と6箇所に出て来る。 現代一般に琉球語(ウチナーグチ)を生活の中で使用している人たちにも、このシザは意味不明であろう。日常の会話には使用されていないので解説する。尚、シージャ(兄、姉、年長者)の意とは異なる。
 シザとは、神に対する生身の人間という意味で仏教で云う衆生(シュジョウ)生命ある全てのものに近い意味であろうと思う。
 その他、ぬんじゅ(うんじゆ〈貴方の最高形〉が同じく6箇所、しでぃる(拝受する、受け賜る)が5箇所、生(あむ)りみしょちゃる(お生まれになった)等の御殿言葉(うどぅんくとぅば)が随所に使用されていて、讃美歌の持つ荘厳な雰囲気や、文語体の持つ凜とした趣をよく伝えている。また一般の会話には使用されず、琉歌でのみしか使われない「言い回し」を使用することで詩歌としての品格も同時にそなえている。
 一方、「箴言(教訓の意をもつ短い句)」は逆に解りやすい一般会話調に終始していて、キリスト教の枠を超えて新時代に適合する近代合理主義を提唱しているようにも読める。僕が笑っちゃったのは60番「朝ん ゆさん 隣ぬ家んかい 立ち入りすな 後ーにりらりゆん」用も無くむやみに隣家に出入りするな、あきれ果てられるぞ!という意だが実に実践的である。そのような人も多かった(近代人としてのマナーに欠けた人が多くいた)のだろう。


御殿言葉(うどぅんことば)

 琉球語のうち、首里言葉(すいくとぅば)は士族言葉として有名だが実は士族言葉の上に御殿言葉(うどぅんくとぅば)があった。御殿言葉は主に王子・按司およびその家族内で話されていた。
 例えば、「おじいさん」は士族言葉では「たんめー」。平民言葉では「うすめー」というが、御殿言葉では{ウフジュンジャンシーメー」と云った。中城御殿には王世子の母君「アットーガナシーメー」が暮しておられた。
 敬語表現が複雑な御殿言葉は『松山御殿物語』刊行会編に詳しい。
 戦後、身分制度が無くなると供に〈言葉〉自体も雲散霧消し、昭和30年代頃には、ほぼ完全に使用されなくなったという。



「ぬんじゅ」にまつわる面白い話

親父は、出生前後の両親の離婚により母方の祖母とその連れ合い(血縁は無かったがとても可愛がってくれた)三人で首里当蔵で暮していた。(僕の)曾祖母は初め中城御殿でのちに美里御殿(ンジャトゥウドゥン)でアガマー(女中頭)として奉公し、(父の)義理の祖父は人力車夫として那覇の街に出ていた。
 ある日、曾祖母は勤め先から3~4歳の女児を家に連れて来ていたが緊張のせいかオモラシをしてしまったそうである。すると曾祖母はその女の子に「ヌンジョー シーバイ シーブサラーヌーンチ シーバイ シーブサン ディ イミソーランガ!」(あなた様はオシッコがしたかったのならなぜオシッコがしたいとおっしゃって下さらないのですか!)と言うなりお尻をまくってペチペチペチと叩いたそうである。当時小学校低学年の親父はそれを見て言葉と行動のギャップに可笑しいやらビックリするやらであったと語っていた。
 首里北方(ニシカタ)に集中する御殿・殿内(ウドゥン・トゥンチ)では厳格な身分制度や複雑な敬語表現がありながらも(奉公人は下男下女ではなく)同時に「長幼の序」も並存するという、現代の沖縄県民には理解のしにくい世界があったんだろうと想像する。
 此処からは、勝手な僕の想像ではある。沖縄県民は凄惨な沖縄戦を体験し、戦後の苦難の歴史を生き抜いてきた。そして日本国の中でも民主主義(デモクラシー)に敏感な地域を創ってきた。そのベースには「ぬんじゅのエピソード」に見られるように、「本音」と「建前」を使い分けたり「本音だけ」「建前だけ」で生きてきたのではなく、異なる価値を融合・調和させて生きてきたのではないだろうか?沖縄県民のメンタリティーの基底にそんなセンスが宿っていなければ現在の「オール沖縄」は説明がつかない。
 保守と革新の対立構図のみでの政治観では未来の沖縄を描くことは不可能だからである。
 誠(マクトゥ) ソーケー ナンクル ナイサという言葉もある。
 ※長幼の序=子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむという在り方。→五倫(孟子)


番外篇 曾祖母のハジチ(針突き) tatoo


 ハジチ(針突き入れ墨)は本来、一人前の女になったことを示す成人儀礼の一つだったといわれている。ところが、明治の初めのころまでは、7歳の頃に最初のハジチを入れ、本格的な文様を入れたハジチは16歳に開始し、婚約直前に完成することになっていたという。『沖縄の祭禱と信仰』平識令治著

 僕の曾祖母(親父の母の母)は僕が生まれる5~6年前に死亡したのでお互いに面識はない。御殿の女中の他、季節により大寺(うふでぃら)とも呼ばれた円覚寺の門前でミカンの相対売りもしていたらしい。〈おそらくは困窮士族のアルバイトであったと思う。仔細は別稿にて〉

 ある日の事,数人の本土人らが、曾祖母の元に来て「写真を撮らせて欲しい」といってきたそうであるが、曾祖母はありったけの日本語力を総動員して「私はミーハガー(目に病気の後遺症があり容貌には全く自信がない)ので申し出を辞退したい」という旨を伝えたそうだが「いやいや私達が撮りたいのは手の甲の刺青だけです」・・・といいながら・・こうして・・・と言いながら山門の柱に両の手を巻きつけて・・・「わんねー うてぃらぬ はーや まんだーちぇー しみらさってぃ・・・」と話していたそうで、お礼に幾ばくかの駄賃も戴いたそうである。
 生前、親父は僕に「オマエはいろんな本を読むから、いつかきっと曾祖母の柱を抱いた写真が出ないとも限らないので注意深く見ていて欲しい」と言っていた。
 この写真を初めて見たのは3年程前、ネットの『アール・ブール師のガラス版写真集』の中からの1枚であった。翌日、円覚寺山門に行き、着ていたジャンパーを柱に着せるとピッタリと写真のように着せられた。後方の格子状の柵は山門の左右にあった一対の阿吽の仁王像の安置場所だと思う。山門の柱にジャケットを着せて夾雑物が写りこまないようにする撮影テクニックは稀代の資料収集家アール・ブールならでわのものだと思い、他にこんなシチュエーション(状況下)でのハジチの写真は今まで見たことがないので僕の曾祖母に違いあるまいと今日発信した次第である。


現在の円覚寺山門


『資料収集の鬼:ブール師』 照屋善彦氏の文の抄録

ブール師(the Rev. Earl Rankin Bull,1876~1974)は、米国のメソジスト監督教会から1911年、九州・沖縄地区へ派遣され延べ15年間日本で伝道をした宣教師である。師は沖縄での本務であるキリスト教の布教のほかに、中学校で英語を教え、また幕末に来琉した英宣教医ベッテルハイムの記念碑を建立(大正15年)したりして、大正時代の沖縄で顕著な活動をした。また師は戦後、琉球大学附属図書館に「ブール文庫」を寄贈した人としても知られている。当文庫が設置された1958年頃の琉球大学附属図書館には、蔵書数が著しく少なく、大学の使命である教育と研究にも支障をきたす状態であった。特に洋書の蔵書に至っては惨憺たるものであったので、ブール文庫が琉球大学に寄贈された意義は大きい。筆者や同僚で沖縄の対外関係史を研究していた者にとって、当文庫はまさに干天に慈雨の如く有り難い贈り物であった。


 今回の25号は『琉球語讃美歌附箴言』がデビューしましたという告知が一番目の目的だったが図らずも話の流れから曾祖母〈ひーばーちゃん〉にも話がおよんで変わったものになってしまった。最後までお読み下さりありがとうございました。
 次回をお楽しみに、パート②があります。

月桃は真珠の涙ためている      ー島袋里奈さんによせてー

2016/5/30


「連絡帳ギャラリー」ファイナル・・・中締めかな?

 平成25年の7月7日に1回目の「連絡帳ギャラリー」が始まり、これまで5回を数え今号で6回目を迎えた。
 そもそも「連絡帳ギャラリー」とは、縁あって供に暮す孫の奏(かなで、5歳3月、若杉保育園)の連絡帳の月替わりの中扉の裏に、その時々に描いた水彩画や句歌を半年に一度程の割合で「みどり風通信」の一連のシリーズになっていたが、この4月から本人の城西幼入園もあり、「連絡帳」そのものが無くなる事により自動的に一応の終了となった次第。絵や句歌はこれからも、遊び心の延長で続くものと思うので「中締めかな?」となった。


H.27.7

忘れてたミニトマトさん雨上がる

夏っていいなぁ~ 小学校の夏休みにトンネルのように続いているみたい・・・・


植えていた事を忘れていたミニトマトが庭の隅で収穫もされずにいたので実の色が様々で、それがかえって周囲に清涼感を発していた。


H.27.8

しむじょう

首里末吉。集落の上部に位置している「沖縄そば専門店」。一連の琉球語賛美歌→ここをクリック
作者、新垣信一牧師の養家。現在は牧師のお孫さん達(多分)がそば屋を営業している。かなり旨い!隠れ家的雰囲気であるが近年、噂を伝え聴いて観光客も多い。家の裏には昔懐かしいフールもあり、湧き水から幅10センチ程の水路が庭先を走る。末吉の森の斜面を背に南面している為、冬暖かく夏は涼しい。

新垣信一(1887~1945)前列右から2人目

H.27.9

冬瓜(トウガン)の切り口笑顔の如くあり

 (トウガンのわたが大口を開けて笑う鼻の穴や、欠けた歯のように見えた。)
 冬瓜(トウガン)を沖縄口(ウチナーグチ)ではシブイというのだが、「スブイ」とクラシカルな発音をするお年寄りもいた昭和の日々・・・・。

H.27.10

秋晴れや柿もミカンの肩を抱く

9条は人類初の到達点
英米欧(エイベイオウ)の夢は正夢

一次二次大戦を経てたどり着く
極東の地に夢の憲法

H28.1

 当蔵、県立芸大近くの又吉さんの家、この家は「大学食堂」という看板があった 記憶がある。並びには高宮城さんの家、金城商店(色白で目の細いカワイイ同級生がいた。風の便りに今仙台にお姉さまと供に暮すと聞いた)フジマ写真館、琉大体育館があった。(ウィーン少年合唱団の演奏会も開催された。)

H28.2

雲南百薬

今朝は裏に自生する雲南百薬草を食べた。

最近読んだ本。今日はこれでオ~シマイ。


連れと行く 今朝の散歩は春日和 二回休んで虎頭山まで     和男

2016/2/12


吾らが父祖の地、勝連南風原高屋小堀端(カッチンフエーバル タカヤ クムイバタ)


 9月の初旬、僕の弟(三男)から電話があった。彼の二女、つまり僕の姪っ子に当たる石川純は昨春、長崎県立大学シーボルト校・看護学科を卒業し正看として福岡の病院に勤務しているのだが、今回、那覇市の看護師の行政職公募に受験、合格し2次試験の為再度帰郷することになった。今回は沖縄口(ウチナーグチ・琉球方言)での自己紹介が新たに加わったとの事。

 「僕達親子ではニッチもサッチもいかない。ニーニー頼む!」という内容であった。風が止み太平洋の真中で一人ボッチの孤独なヨットマンが「あせったってしょうがねー」と『ニッチモいかずにサッチモを聴く』(サッチモ=ルイ・アームストロングの愛称)と詠った短歌の下句を思い出しながら。

 「OK!俺一人でできるかどうかわからないが、知人友人の力を借りれば何とかなるだろう。純ちゃんに原稿を書いて持って来てくれ!」と伝えた。


 そして出来たのがこれ↓である。黄色の蛍光色に塗られた部分を発音すれば琉球方言になるが、音だけだと沖縄語が初めての方には、チンプンカンプンだろうから、漢字も使いルビでその音を記し蛍光色を塗った。( )カッコ書きで日本語訳も入れたら、珍妙なものになった・・・独創とは時に珍妙なものだ。 

 話し言葉は、対面でなされるので、相手との関係性(年長者か年下か、男性か女性か、士族か平民か、現代では考慮の必要は無いのだが・・・)が考慮された。今回は相手は複数、年長者という設定は前提条件であった。


 それを文字表記にし→、石川純が、それを暗記して→話すという段取りである。このペーパーを彼女に読ませたら、区切り方、抑揚などに不自然な感じは無かったので 「この子は自分から沖縄方言を発する事は出来ないものの沖縄方言を割りと聞き慣れていて、それなりに理解している」と僕は判断したので、「小さな所にこだわらずにハッキリと、ある程度のスピード感を持って話せれば成功だよ」と伝えた。「君のが多分一番長いだろうと思う」とも付け加えた。


 5人の面接の先生方はニコニコしてお聴きくださり、「首里言葉(スイクトゥバ)ですね」と話されたそうだから、おおむね成功だったのだろう。

口語と文章語

 大分前、司馬遼太郎の本で読んだかと思うが、江戸末期の志士達は下級武士の出が多かったという。 ある程度上のクラスならば江戸藩邸詰めの経験もあり多少のお国訛りは残るにしても、共通の武士言語があった様で、「貴公」「貴殿」「拙者」や「~でござる」を使い、主語と述語を組み合わせて、どうにか意思の疎通は可能であったようだが、細やかなニュアンスや心情の吐露までは伝えきれなく、下級武士同士例えば薩摩藩の下級武士と会津藩の下級武士とは全く会話が成立しなかったという。

 そこに候文(そうろうぶん)が登場する。大事な事は互いに手紙を書き合って文章語でもって合意形成を図っていた・・・・そんな事も思い出した。


 セルラースタジアムでの県民大会、翁長県知事の決めゼリフ『ウチナーンチュ ウシェーテー ナイビランドー!』を新聞では「ウシェール」を「ないがしろにする」と上品に訳し、『沖縄の人々の意思をないがしろにしてはなりませんよ!』となっていたが、現役のウチナーンチュとしては???感がある。もっと凄みの効いた野趣で、侠気溢れる「いなせ(勇み肌できっぱりしたさま)」な味わいなのだが・・・That is so cool!!と言ってあげたかった。(孫の奏なら「めっちゃ イケてる!!」と言っただろう。)   言葉って面白い!


 細やかな事、細部(ディテール)から本質が見えてくると思う。それを見抜く眼力を磨きたい!!



番外編 松山御殿のキンちゃんの話(まちやまうどぅんの尚謹さんの話)

松山御殿(まちやまうどぅん)にある指司笠樋川(サシカサフィージャー・井泉)


 戦後永らく桃原農園のあった場所に松山御殿はあった。僕の親父と同年代の尚謹さんは尚順男爵の五男としてそこに暮しておられた。

 ある日の事、3~4人の友人等で御殿の石垣によじ登り、。両の手でメガホンを作り声を合わせて「キンチャーン! アシバー!(き~んちゃん あ~そぼ!)」と叫んだ。それを聞きつけた庭番の使用人が走り出てきて「ヤナ ユンバクソー ワラバーター ガ ワッター  ボージュー ン カイ キンチャン ディー  フリムン ウリレー ケーレー!」と叫び返した(この百姓の子せがれどもめがウチのお坊チャマに、なれなれしく、謹ちゃん だとー! 馬鹿! そこから降りろ! 帰れ!)と、まあそんな語感がピッタリな言葉が返ってきた。この百姓というのは職業の意味ではなく平民という身分の事である。彼にしたって 本部の伊豆味あたりから奉公に上ってきた青年であったろうに失礼ではある。


悪童らがよじ登った石垣


 騒ぎに気付いた、当主の松山御殿・尚順(最後の琉球王、尚泰の四男)は優しく子等を屋敷内に招じ入れ、半紙に包んだ煎餅だか羊羹だかを一人一人に手渡したそうである。


 ウチに帰り父は祖母にその事を話すと

「ウンナ バーネー 『シディヤビラ』 ディチ カミティ ドゥ ウィーユン ドー」

(そんな時には、『シディヤビラ』と言って、両手で目の高さまで押し戴いて(カミティの所作 )もらうのよ)

と語ったそうである。ニィフェーデービルではなく、シィディヤビラという御殿言葉(ウドゥンクトゥバ)が今では新鮮に響く。

~~~~~~~~~~ 沖縄のシャンソン(ナークニー ハンタ原)から琉歌一首~~~~~~~~~

人の仁徳やうてぃんぐとぅ さらみ  授かゆる 徳や カミティ シディラ

(人の仁徳は天命であるぞ 授かった徳は 拝受しよう) 意味深長ではある。僕は「仁徳」を、それぞれの人が生まれ落ちた境遇と解釈したらスッと腑に落ちた。

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「松山王子、事件ですよ!」

 「松山王子とは最後の琉球王、尚泰の四男、尚順男爵のこと。お耳に入れたい事件とは島豆腐を脅かす一大事。

 県民食の誉れ高い島豆腐の消費量と製造業者が3年連続で減っているという沖縄総合事務局のお触れがあった。存命ならば男爵もさぞ嘆いたであろう。島豆腐といえばチャンプルーの主役ではないか。博識かつ食通で知られた尚順は1938年の随筆『豆腐の礼讃』で安価で入手しやすい豆腐を「真の美味珍味」とたたえた。豆腐好きが「トーファー」とあだ名で冷やかされたという逸話が楽しい。

 「スクガラス豆腐」を考案したという食通男爵に指南を願いたい。

 2014年8月27日(水)琉球新報『金口木舌』より転載


尚順 wikipedia →ここをクリック



 最後までお読み下さり有難うございました。今回は変わったテイストになり楽しくタイピングしていました。今日はこれでオ~シマイ。

附録

『琉文21』より転載

ルイ・アームストロング What a wonderful World→ここをクリック


謹ちゃんや尚順男は知らねども 親父の語りを伝えんと思う     和男

(首里人はバロン尚順の事を親しみと敬愛の念をもって尚順男(ダン)と呼んでいた。) H27.11.22

 先週、15日、京都大学の学生、教員、職員の有志(自由と平和のため京大有志の会)が、安保法案に反対して、韻文調の(詩のような)声明文を発表した、それが感動を呼び賛同の波が広がっている。そこで「みどり風通信 独立22号」として皆様にご紹介すると同時に記録の為に書き残す事とした。



戦争は、防衛を名目に始まる。
戦争は、兵器産業に富をもたらす。
戦争は、すぐに制御が効かなくなる。

戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。
戦争は、兵士だけでなく、老人や子供にも災いをもたらす。
戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。


精神は、操作の対象物ではない。
生命は、誰かの持ち駒ではない。


海は、基地におしつぶされてはならない。
空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。


血を流すことを貢献と考える普通の国よりは
知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。


学問は、戦争の武器ではない。
学問は、商売の道具ではない。
学問は、権力の下僕ではない。


生きる場所と考える自由を守り、創るために、
私たちはまず、思い上がった権力にくさびをうちこまなくてはならない。


自由と平和のための京大有志の会




変則のそしり恐れぬ南風(みなせ)吹く        和男  H27.7.21



伊丹万作(いたみ まんさく)1900~1946.日本の映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。映画監督、伊丹十三の父君。 長女は大江健三郎夫人の大江ゆかり、孫は俳優の池内万作、池内万平。


以下は『映画春秋』創刊号。1946(昭和21)年8月発刊よりの抄録(抜書き)である。

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 最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前も混じってるということ聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれは本当に君の意見かときくようになった。

 そこでこの機会に、この問題に対する私の本当の意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとって、近頃この問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。

 多くの人が、今度の戦争で騙されたという。みながみな口を揃えて騙されたという。私の知っている範囲では俺が騙したのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人は騙したものと騙されたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官に騙されたと思っているが、軍や官の中へ入ればみな上の方をさして、上から騙されたというだろう。上の方へ行けば、さらにもっと上の方から騙されたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人か二人の智慧で一億の人間が騙せる訳のものではない。

 すなわち、騙していた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。しかもそれは、「騙し」の専門家と「騙され」の専門家とに画然(ぴったりと)と分かれていたわけではなく、いま、一人の人間が誰かに騙されると、次の瞬間には、もうその男が別の誰かを捕まえて、騙すというようなことを際限なく繰り返していたので、つまり日本人全体が夢中になって互いに騙したり騙されたりしていたのだろうと思う。

 このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさやさては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織いかに熱心にかつ自発的に騙す側に協力していたかを思い出してみれば直ぐわかることである。



少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫し続けたか、苦しめ続けたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり。あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければらない、あらゆる身近な人々であったということは、いったい何を意味するのであろうか。

 いうまでもなく、これは無計画なテン狂戦争(キチガイジミタセンソウの意、テン=やまいだれに旧漢の真に頁)の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまったためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかった事実をも、等しく承認されるに違いないと思う。

騙されるという事は勿論知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意思の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持っている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならな。つまり、騙されることも一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。

 騙すものだけでは戦争は起こらない。騙すものと騙されるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 そして騙されたものの罪は、ただ単に騙されたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なく騙されるほど批判力を失い、思考力を失い、家畜的な盲従に自己の一切を委ねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無責任などが悪の本体なのである。

このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することが出来なかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実と全くその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配者階級全体に対する不忠である。



 我々は、はからずも、いま政治的には一応開放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分達の罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「騙されていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から開放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるをえない。
「騙されていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも騙される、いや、現在も既に別の嘘によって騙されはじめているにちがいないのである。

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今日は7月12日(日)今週、自民の安保法制の強行採決あるやも・・・という時期、
  取り置きの〈伊丹万作〉をだしてきてみた。なにかせずにはいられない!そんな午後だった。
新国立競技場問題、TPP,原発再稼動・福島避難民・中間貯蔵施設等の問題にも、『伊丹万作の言葉』は今に甦る(よみがえる)。



夏の朝花一輪がものをいう  和男   H27.7.12



 毎年、律儀に花を咲かす2鉢の紫陽花(アジサイ)、今年はいつか写真に撮ろうと思っていて6月11日の早朝に撮影した(隣の水蓮を見つめるエンジェルも)。その日の午前11時、沖縄気象台は「沖縄地方の梅雨明け」を発表した。平年は23日ごろで12日早く、昨年より15日早い。
梅雨の期間は平年より23日短い22日間、1951年以降の観測史上3番目の短さだった。

 ここ数日、知人友人等は会えば挨拶の様に「今年は確実に断水になる」と口にするが、彼や彼女らは決まって55歳以上の歳で本土復帰前の「夜間断水や隔日給水」を幼少時に経験した世代である事に気付き、独り苦笑した。
 (知らない世代や本土在住の人の為に記すと『断水』とは水道の蛇口から水が出な「給水制限」のことで、その日付けや時間また実施期間もTVや新聞やラジオで告知されていたと記憶している。水不足になったら水の神様弁財天堂に雨乞いの祈りを捧げようと密かに計画している。 (最近はスピリチュアルにも目覚めたのだ→ウ~ソデ~ス)

連絡帳ギャラリー(1月~6月)

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 15センチ×11.5センチの空間に、その時々の想いを水彩画と短歌や俳句(供に我流)を作成する事は、僕の生活の心地よいアクセントになっている。連絡帳とは縁あって同じ屋根のもとで暮す、孫の奏(かなで}・4歳7ヶ月)の通う、首里大名町の若杉保育園の連絡帳で、月替わりの中扉の部分に貼りつける。今回は3月が欠番になってしまったので、ピンチヒッターで「自宅附近の見取り図」が面白かろうという事になり、そうした。

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保育園の青春を生きる奏 還暦の少年時代を生きるJI
  お互い、生まれてきて良かったなぁー! 感謝しようぜカーチャンに!


[喜び方がまだ足りない]

 もっと喜ぼう。ちょっといいことがあっただけでも、うんと喜ぼう。
 喜ぶことは気持ちいいし、体の免疫力だって上がる。

 恥ずかしがらず、我慢せず、遠慮せず、喜ぼう。笑おう。にこにこしよう。
 素直な気持ちになって、子供のように喜ぼう。

 喜べば、くだらないことを忘れることができる。
 他人への嫌悪や憎しみも薄くなっていく。周囲の人々も嬉しくなるほどに喜ぼう。

 喜ぼう。この人生、もっと喜ぼう。喜び、嬉しがって生きよう。

『ツァラトゥストラはかく語りき』

〈超訳 ニーチェの言葉〉より

クバオージ(クバ扇)の上のムーチー

 葉っぱに包んで、蒸す」のはポリネシアを含め広く環太平洋の島々に伝わる伝統の調理方です。
 近年はクバ(びんろう)の木が少なくなりクバの葉で包む(一人に1個ずつ割当てられる)特大の力(チカラ)ムーチーが見られなくなったのは寂しいです。
 このクバの葉のチカラムーチーを一番下にして、子供の一人一人にその子の歳の数だけ、2本の紐で編み上げて、一晩壁などに吊るして「ムーチーの日を祝う」旧暦12月8日の沖縄の伝統行事です。上の絵の左下の小さなイラストを御覧あれ!

↓はウチの裏に自生する月桃(ゲットウ)の花と葉です。6月初旬撮影
沖縄の代表的叙情歌『月桃』 →ここをクリック 歌詞中、6月23日は「沖縄慰霊の日」です。

〈 ピンチヒッター 『自宅附近の見取り図』〉

(詳しく記入して下さい。)を遵守したのでこのような地図になった。蟻やハブやユーレイのイラストは「酒の肴、刺身のツマ」です。

北の地のアスパラガスは逞しく門別産の響きも嬉し

 南国沖縄に暮していると、北には淡い憧れにも似た特別な感情を持つものである。(多分、いつも北海道の物産を送ってくれる、友人の山口悦嗣さんご夫婦も南国にエキゾチシシズムを感じているのだろうと思う。帯広がお菓子の街でもあることを最近知った。)


北海道には二つのモンベツ

 門別町をネットで調べた、町名の由来はアイヌ語の「モベツ」(静かな川の意)からとある。
網走支庁の紋別と読みが同じであることから「日高門別」と呼んで区別することがあるという。
1960年代後半から1970年代前半にプロボクシングで活躍した右のボクサーファイター「精密機械」とも絶賛された沼田義明(WBA・WBCの統一チャンピオンにもなった)の出身地であることも知った。懐かしい!  (当時、集団就職で東京に来た若者が街のジムに通った)

続いて紋別市も調べてみた。「北見紋別」オホーツク海に面していて、冬には「流氷砕氷船ガリンコ号」が有名、人口は2010年で24,000人。過疎化の波は北の地にも厳しい。 特に平成元年1989年の名寄本線の廃止とともに「限界集落」の文字もちらつく。

 紋別に関係する資料をネットサーフィンをしていて珍しいものに出逢った。上の上は廃墟となった和訓辺(ワフンベ)小学校。下は教員住宅であろう畳の間に落ちているボード(多分、講堂か体育館の壁に掲げられていたのだろう。)同校の校歌であるが、作詞者名に眼が留まった。糸数昌一とある。いろいろ調べてみると、糸数昌一氏は和訓辺小学校の第2代の校長ということだった。同校は大正12年に和訓辺尋常小学校として開校している。
 第2代といえば普通に考えて昭和1ケタの時代に沖縄に関係する人物が、ここ北の地の小さな小学校に赴任して来たという事だ(辺境の地である。前回書いた親泊朝省の父、大宜味塩屋の例からして、当時20代後半くらいの若さであったろう・・・)不思議な気持ちになった。
愛おしさ〈大事にして、かわいがりたくなるさま〉さえ憶えた。
 どんな気持ちで暮していたのだろう?奥様は居らしたのだろうか?オホーツクの海を見て「この海は遠く南の故郷の海と繋がっている」と波頭を見つめる日もあったろうかと・・・空想は空想を呼び眼を閉じれば映像となる。

『オホーツクの舟歌』→ここをクリック


 余談だが、「糸数昌一」という同姓同名の大学のレスリング部の先輩がいる。先輩は大阪で生まれ育った、浪商の卒業生、ご両親が首里鳥堀の出身である。沖縄全体に「糸数」という姓は在るが、「昌」という文字の名をもっているのは首里・那覇にゆかりの系統であると思う。


〈台風の去った朝は・・・・・・〉

 台風の去った朝は、山川や桃原まで遠征をして壊れた家の事や、道路に倒れた大木の話 などを嬉々として話していた・・・・・・。
 母はオーバーにビックリして聴いてくれていたっけなぁ~   〈小学校のころ〉

5月12日、台風の去った朝に

夏近し雨の晴れ間は有り難く糸瓜の味噌煮シシャモなど喰ふ

 ヘチマの味噌煮、シシャモとくれば飯は麦飯(むぎめし)漬物は沢庵と相場は決まる??

 先日のお昼前、妻に「君の料理に不満は無いけど、たまには、よく食堂で出てくる、でっかい豆腐に白っぽい葉野菜にポークと卵を1個落して、固めドンブリで食べる『沖縄風味噌汁』が食べたい」と注文すると作ってくれた。「おいしゅうございます」でした。
 食事の最後に具の少ない、小さな椀に入った味噌汁を飲んでゴチソーサンもいいけど、沖縄の暑い夏にはコレモ欠かせないよなぁ~とおもった。

ZZZZZ中城御殿(なかぐしくうどぅん)の工事始まるZZZZ

 中城御殿は琉球王国の王世子(中城王子)の邸宅で世子殿ともいわれる。解り易く首里城と皇居に例えれば皇太子のお住まいの赤坂御用地にある東宮(東宮御所)が龍潭の北にある中城御殿にあたる。


//////// 尚家国宝、中城御殿へ。22年度公開目指す///////

2013年、7月12日 10:36  ryukyushinpou.jp より抜粋

 県が復元計画を進める中城御殿(なかぐしくうどぅん)=那覇市首里大中町1-1の旧県立博物館跡に那覇市が所有する国宝「(琉球国王尚家関係資料」を寄託、展示する計画が進んでいる。
 中城御殿には、琉球王国時代の世継ぎが住んでいた。NPO法人首里観光協会(金城英輝代表)が那覇市議会に尚家国宝の県への寄託を求める陳情が6月26日に採択された。1879年の「琉球処分」の際、首里城から中城御殿に移され、その後東京に運ばれ戦禍を逃れた琉球の宝が、長年の時を経て首里に戻ることになる。

 県は2022年度にも中城御殿の一般公開を目指している。今後、中城御殿跡地整備検討委員会で、国宝受け入れに向けた施設整備の内容を詰める。県は10年12月から8回開かれた。
開始当初から展示エリアの整備計画はあったが、尚家の国宝展示は想定していなかった。

 「古都に尚家の宝を戻したい」と動き出した首里観光協会は県議会への陳情を12年に行い採択された。署名活動も展開し、約2千人の署名を集め、那覇市議会に提出した。
 尚家の国宝は、美術工芸品や古文書など1251点ある。首里城公園の首里城南殿、北殿などにも展示スペースがあるため、検討委は、総合的な展示方法を検討していく。

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70年めの「慰霊の日」によせて

 6月23日は沖縄慰霊の日、沖縄戦で日本軍の組織的戦闘終結(牛島司令官と長参謀長の自決)の日となっている。

 沖縄では一家全滅や、狭く混乱を極めた本島南部の山野でちりぢりになり、戦後に互いの消息を知った人々も多い。いつ、どこで、どの様な最後を迎えたのかを知らない生き残った家族は、命日も知らず、遺骨とて無く、海辺の小石を骨壷に入れて、慰霊の日を仮の命日として墓に納め、位牌も拵(こしら)えたものの戒名を見ても父や母、姉や妹・弟という実感がせずに、どこか互いに(生者も死者も)よそよそしさを感じていた。

 1995年、戦後50年を記念して建設された『平和の礎(いしじ)』の前に佇(たたず)んだ遺族は石に刻まれた明朝体の肉親の実名に出会い、初めて父や母、姉や妹、弟という実感が込み上げてきて、何度も何度も刻まれた名前を指でなぞり、ある者はハラハラと涙を落とし、亦、ある者は礎の前に泣き崩れた。
 今でも「慰霊の日」には、肉親の名前の刻まれた石版の下に花を手向け、線香を焚く人々の姿は後を断たない。

慰霊の日は命日であり、礎(いしじ)は位牌なのです。

(県民の4人に1人が死亡した沖縄戦で、全体で県民15万人が犠牲になった。『平和の礎』は国籍、軍人、民間人とを問わず、24万人の名前が刻まれているが、朝鮮、台湾出身の遺族の中には「日本軍関係者と同列にされたくない」と刻銘を拒否した人々もいる。

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最後までお読み下さり有難うございました。どうしても日本のそして沖縄の夏は憂いが伴います。けっして戦争の出来る国家になってはなりません。戦死者だけではなく、先祖の皆様に申し訳けが立ちません。自民党は国会の会期を延長してまで強引に多数での合意を目指しています。地獄に落ちる輩達です。これはイデオロギーの対立ではありません。近代の国民国家の立憲主義を知らず、コモンセンスを否定する傲慢な餓鬼道との対決です。この2~3ヵ月の戦いは文字になり年表に記される事でしょう。


(昭和6年1931年に始まった満洲事変から昭和20年1945年の敗戦までに日本全体で310万人の死者を出しましたが、その内の200万人は昭和19~20年に集中していた事実を最近知りました。)


命日に そっと定めた 沖縄忌   和男    H27.6.27


英エコノミスト誌がまとめる世界平和度ランキング(2014年)で日本は162ヶ国中8位、アジア では堂々の1位だ。紛争が無く治安の良い社会で暮せることを誇りに思う。一方で日本の「報 道の自由度」は180ヶ国中61位となっている。NGO「国境なき記者団」が調査した15年のラン キングが2月に発表され、日本は前年の59位からさらに落ちて過去最低となった。ランキング は報道の自由に対する侵害や検閲の度合いなどを評価する。日本は09年17位、10年11位と 世界でもトップクラスの国だった。当時、省庁の会見を記者クラブ以外にも解放したのが理由 とされている。ところが12年は53位へ急降下した。東日本大震災後、原発事故の取材で情報 が制限されたのが理由だ。国境なき記者団の報告は「フリーランスの記者は政府、東京電力 の記者会見への出入り、情報へのアクセスを禁じられている」と批判する。さらに特定秘密保 護法の施行が追い打ちをかけた。国の都合だけで情報が隠され、私たちは何が秘密なのか さえ知ることもできない。日本の報道の自由は黄信号といえる水準だ。その上、自衛隊「文官 統制」廃止、さらに海外派遣への道を開こうと政権は前のめりになっている。秘密に包まれ知 らない間に国の行方が誤っていたとしたら、報道の自由の大切さは市民にとっても重要なもの だ。・・・・と結んでいる。

以上は、3月8日付け琉球新報の『金口木舌』全文である。

去る大戦で7年間従軍し、ニューギニア近くのソロモン群島、ブーゲンビル島から生還し、15 年前、82歳で没した私の父は「終戦直後、大本営、陸軍報道部長の首里大中町(みどり印刷 の所在地)出身の親泊という大佐が自決し夫人と子供二人も殉死した」と語っていた。気には なっていたのだが、そのままにほっていた。
今、日本のメディア(NHKはじめ日経・朝日・毎日・読売・産経の大手メディア)は政権の圧力 を受けジャーナリズムの本旨(主権者たる国民に本当の事を知らせ、いろいろな価値観に基ず く議論の場を提供する)事をしていない、そればかりか政権と一体となって政権に都合の良い 方向に国民を誘導さえしていると思う。(平成の大本営である。)

その矢先、「大本営陸軍報道部部長 親泊朝省」について書かれた澤地久枝著『自決 ここ ろの法廷』という本に出会い、親泊朝省(おやどまり ちょうせい)を調べ紹介するレポートを書 こうと思い立った。最早「戦前のようだ」などと悠長な事を言っている事態ではない。

 大本営とは、日清戦争から、太平洋 戦争までの戦時中に設置された日本 軍の最高統帥機関であり、天皇の命 令(奉勅命令)を大本営命令として発 令する最高司令部としての機能を持 った。

太平洋戦争末期の敗色が濃厚にな るにつれて、さも戦況が有利であるか のような虚偽の情報が大本営発表と して流し続けられたことから現在では 権力者が自己の都合の良い情報操 作をして虚偽の情報を発信することを揶揄した慣用として「大本営」「大本営発表」という表現 が用いられている。

  具体的には、当初はほぼ現実通りの発表を行っていたが、一般的にはミッドウェー海戦の頃 から損害矮小化発表が目立ちはじめ、不適切な言い換えが行われるようになり、敗戦直前に は勝敗が正反対の発表すら恒常的に行われたことから、現在では「内容が全く信用できない 虚飾的な公式発表」の代名詞となっている。

  ジャーナリストの清澤きよし(さんずいに列)は、「空襲の被害や内容について政府は一切発 表しない。ただ幾ら打ち落としたというだけだ。・・・誰かがその打ち落としたものを総計すれば 米国の造ったB29 よりも遥かに多くなっているといった(『暗黒日記』Ⅲ、3月12日の項)と書い ている。現在の内閣府世論調査発表もこれにあたらないか!? 後列中央・親泊朝擢、前列向かって左から長男朝省、長女ツル、三男朝圭、妻ウシ、次男朝普

親泊朝省の生い立ち

 明治36年、父朝擢(ちょうたく)、母ウシの長男として生まれた。朝擢は明治8年首里(大中) で生まれ、同38年、沖縄県人として初めて大宜味(おおぎみ)尋常小学校の校長になったこと で知られている。それ以前には、沖縄の小学校長はすべて本土の人間が任命されていた。 大宜味尋常小のある大宜味村塩屋の地で幼少期を過ごした朝省は県立一中へと進学する、 そして2年後の4月、熊本陸軍幼年学校に入学が許可され(一中を中退して)熊本へと旅立 つ。それ以来、沖縄に帰る事はほとんど無かった(幼年学校時代も後の陸軍士官学校時代も 夏の休暇は宮崎市出身の親友、菅波三郎の自宅ですごしていたという。後に菅波三郎の妹 英子と結婚する。)

 思えば、首里大中町出身とはいっても、それは父朝擢の生まれた「本籍地」なのであり、そ こで暮したのは一中時代の2年間にすぎない。一中での親しい友人は居たのだろうか?どち らかといえば「ひ弱な」印象の少年時代のエピソードを見るに付けその思いはつのる。彼の故 郷への想いとはどのようなものだったのだろう?自ら沖縄出身であると語ることは無く、彼を知 る人達の多くが「沖縄の出身であるらしい・・・」と他人からの伝聞によりそれを知ったという。 『自決 こころの法廷』より。

 県立一中から海軍兵学校に進み少将となった漢那憲和(退役後に衆院議員)や、同じく一 中から海軍軍医学校に進み少将(医学博士)の上与那原朝珍(うえよなばる ちょうちん)。 彼は地元沖縄でも珍しい姓名であったが、むしろそれを誇りとして生きた。(当時、日本本土 で活動する沖縄県人で、異風に聞こえる沖縄特有の姓を大和風に替えるという風潮があった という)県出身の高級軍人の中でも上の二人と親泊は異なる系譜に属していたと思わざるを得ない。

幼年学校時代のエピソード」そして「幼年学校とは?」

 紅顔可憐、小柄な美少年だった幼年学校時代、機械体操が苦手、走り幅跳びも人並みに 跳べなかった。同様の落語組一同は校舎の周回走をさせられるが、「ひ弱い親泊」は青くなっ て途中で列外に出る。親泊は特別扱いで怖い三年生も黙認する。他の生徒が列外に出ると、 「コラッ貴様は親泊と違う」とどやされて列に戻されたという。竹刀(しない)も重げだった親泊が やがて騎兵科へ進んだことは皆を驚かせた。 陸士時代の親泊は、町を歩くと女学生が一斉に振り返る美男子だったという。体も鍛え、騎 兵科を首席で出るだけの好成績もあげる。幼年学校5年、陸士の予科、本科4年を経て軍人ら しい青年へ脱皮した。

〔幼年学校〕

幼年学校とは、幼年時代から幹部将校候補を純粋培養する為に設けられた陸軍の全寮制 の教育機関。旧制中学1年~2年修了程度に受験資格を与えた。陸軍中央幼年学校を東京 に1校、陸軍地方幼年学校を、仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本に各1校を設立。地方幼 年学校で3年間学び卒業すると、中央幼年学校に2年間学び、地方・中央で5年間の修業年 限となった。                  By wiki.

「おいしゅうございます」の岸朝子は姪(めい)

「世界のカキ王」の宮城新昌は義兄

 親泊家は琉球王府尚家の血をひき、首里士族として格式のある家系であった。 朝擢・ウシ夫妻の三男二女の三番目初めての男の子が朝省である。第一子の長女ツルは、 テレビなどで活躍した料理研究家の岸朝子の母と書けば親泊家もその時代もすこし身近に感 じられるだろうか。朝省と朝子は叔父と姪の間柄になる。

 

 長女ツルが嫁いだ宮城新昌(しんしょう)は、国頭(くにがみ)農学校卒。移民を引率してアメ リカに渡り、カキの養殖を志しカナダで日英合弁の水産会社をおこして重役になるなど、事業 家肌の人であった。1913年に帰国し、カキの養殖で「世界のカキ王」とも呼ばれた。 垂下式カキ養殖法を考案し、宮城県石巻市で実用化に成功し、種ガキの生産と技術者の養 成につくした。宮城の産み出した垂下式は、縦に長く吊り下げる事により深海での養殖も可能 となり狭い海域でも大量の生産が出来る事から東北のリアス式海岸にマッチした養殖法は全 国にも広がった。沖縄の実業家、宮城仁四郎氏は新昌の従弟にあたる。

 

岸 秋正と岸文庫(県公文書館)

20歳になったばかりの宮城朝子は、叔父朝省の肝いりで、朝省の香港攻略戦以来の仲で あった、岸秋正と見合いに続き朝省・英子が仲人をつとめ結婚した。(朝省はガダルカナルで の岸秋正の中隊長としての行為に感服・感動していた。)

 

 岸秋正は愛知県出身、陸士51期。宮城朝子は東京高等師範附属小学校から府立第三高 女に進み、女子栄養学園で学んだ。

 岸秋正は戦後、沖縄関係資料の収集家として知られ、1995年に没したが、1997年、妻の朝 子により、蔵書11,000冊が沖縄県公文書館に寄贈された、岸文庫と命名された蔵書には『琉 球神道記』や『中山伝信録』『沖縄法制史』など希書が多数含まれている。

 

親泊朝省軍歴そして自決までの日々

サイト「風餐記(ふうさんき)」というもの見つけた。親泊の足跡を時間軸に沿ってコンパクトに まとめられているのでこれをコピーペーストする。( )とゴシック体(太文字)は筆者。

 

 熊本陸軍幼年学校、ここで終生の友となる菅波三郎(すがなみ さぶろう)と出会う。二人は 三ヵ年後、共に東京市ヶ谷の陸軍士官学校に進み、大正12年(1923)陸軍士官学校予科を 卒業した。その後、親泊は羅南(現北朝鮮日本海沿岸部の軍都)の騎兵27連隊第2中隊に士 官候補生として入隊。中隊教官を勤める西田税(みつぐ)少尉を知る。

 

 「羅南には素晴しい先輩がいる。是非君に会わせたい人だ」その頃、鹿児島の歩兵45連 隊にいた菅波三郎に届いた親泊の手紙には、西田税の名が誇らしげに記してあった。それか ら2年後の大正14年、陸軍士官学校を首席で卒業すると再び羅南の原隊に復帰。昭和5年 には菅波三郎の妹、英子を妻に迎えた。

 

  昭和6年(1931年)満州事変勃発に伴って出征した。翌7年、南満州錦西城で張学良軍に 包囲された第27連隊本部を奪還、連隊長が戦死という激戦の中で小隊を率いて本部に突入 して軍旗を護る。(金鵄勲章を下賜される。小隊は兵科によって多少異なるが、騎兵小隊は 40~50人。3~4個分隊)

 

  昭和10年長女靖子誕生。昭和11年2・26事件。軍当局による一審即決の裁判で西田税は 死刑。菅波三郎は禁錮5年の刑を受けて軍を追われた。

 

騎兵少佐に進んだ昭和14年、陸軍大学校に進み翌15年に卒業すると広東方面に展開する 第38師団の作戦主任参謀に就任。この年、長男朝邦(ともくに)誕生。昭和16年、大東亜戦争 勃発(米英との太平洋戦)第38師団は香港攻略戦に従い、次いでジャワ攻略戦。17年秋には 米軍の反攻が本格化したガダルカナル島にその鉾先を転じた。極端な糧食の不足と疫病の 蔓延により損耗の激しいガ島守備隊は翌18年2月撤収。(当初34,000人の将兵のうち25,000 人が戦病死。親泊朝省も痩せ衰え、頭髪の全てと上下の歯の全てを失った。ガダルカナル島 をガ島と略し、餓島の文字を当てた、隣のブーゲンビル〈ボーゲンビル島〉は墓島の字を当て た所以である。)

 

  大本営情報部勤務を命ぜられ昭和18年秋、帰京。民間の報道機関に戦況を報知する(「婦 人公論」「婦人倶楽部」「主婦の友」「アサヒグラフ」などの雑誌に記事を寄稿する)任務に従事 するが「軍の機密保持の為、実際の戦況を国民に報道できない。心の中では申し訳ないと詫 び続けている。本当に辛い職務だ」と羅南時代の部下に洩らしていた。そして昭和20年、終戦。

 

 同年9月3日早朝、目黒の菅波三郎宅に親泊の隣家なる米屋が駆けつける。---「親泊 様、御一家、御一同、御自害、相果てられました」---菅波は小石川区大原町の親泊家に 急行する。玄関の扉を排して二階に駆け上がると、8畳間に盛装した親子が4人、右から朝省 英子、靖子、朝邦の順に並び、朝の光の中で眠るように息絶えていた。

 

(朝省は自らの心臓をピストルで射抜き、英子は朝省により、こめかみに発射、子供二人は青 酸カリ入りサイダーでの服毒死であった由。)

~中 略~

 菅波の発見は三日であったが、自決はその前日九月二日であったかもしれない。それは、 東京湾上、戦艦ミズーリにて大日本帝国の降伏文書調印式(ポツダム宣言の受諾)の日であ る。享年41歳。   

 

草莽の文(そうもうのふみ)

 これは、親泊朝省が昭和20年8月15日、玉音放送(昭和天皇による終戦の詔書の朗読報 送)により、日本の降伏が国民に公表された日に筆を起こし、8月20日付けで印刷し遺書と して陸軍の関係者に配布した。2万1千余文字、原稿用紙53~54枚からなる。

  第1章から第6章まであり、第1章「歴史の眼で視る」第2章「大東亜戦末期を反省する」と あり、大東亜戦を直接に結末に導いたものは①B29による中小都市への爆撃②原子爆弾の 出現③ソ連の参戦を挙げている。(ごく常識的見解が述べられている。) 第3章では「大東亜 戦争は如何に終わったか」として「大東亜戦争は道義的には勝利を占めたが、残念乍ら国体 護持は困難になった」という精神論的色合いの濃い荒唐無稽なものになっている。

 第4章では、「我等はこれから何をなすべきか」この章は「南京虐殺」に係る問題を採り上げ ていて興味深いので後段にまとめる。第5章「これからの戦のために」(敗戦後の日本の生き 方について述べている。)第6章(第5章の続きの様なものだが、「足利尊氏」や「楠正成」「湊 川の戦い」などのことが述べられている。歴史上の事柄をとうして現在に見立てる手法には閉 口する)陸士・陸大卒ならばクラウゼヴィッツにも学んだ近代軍の作戦参謀ではないか! 「草莽の文」という遺書の内容は「皇国の天壌無窮(天皇のおはします日本国が天地 ともに極まりなく続くさま)を絶対に信ずる」という典型的な皇国史観に彩られているが、 日本軍の行為に対する反省の弁をのべている点に特徴がある。第4章「我等は何をなす べきか)の一部を以下に引用する

以下抜粋引用

(前略)明治維新なって建軍の本義ようやく明らかになり、国運に伴って隆とし来たり、国軍の 威容重きをなすに従って、我等軍に従うものまた自ら反省すべきものがあったのではなかろ うか。

 軍の横暴、軍の専上と世に専ら叫ばれることに就いて、私は自ら反省して自らはずべきこと 少なからざるものあると悟るのである。 例えば、満州事変、支那事変の発端の如き、現地軍の一部隊、一幕僚の独断により大命を ないがしろにした様な印象を与え、満州事変以来みだりに政治に関余して殊更に軍横暴の非 難を買うが如き態度を示したが如きはそれである。

 また、外征軍、特に支那に於いて昭和12~13年頃の暴状は遺憾乍ら世界各国環視の下に 日本軍の不信を示したといえる。即ち無辜の民に対する殺戮、同民族支那人(同じ東洋人 という意味か?)に対する蔑視感、強姦、掠奪等の結果は、畏れ多き事ながら或る高貴 な方をして皇軍を蝗軍(コウグン=イナゴの軍)と呼ばしめ奉るに至ったのである。

 斯くて皇軍の権威は地を払い我が陸軍は海軍とも相克対立を示すに至っては、官は軍を離 れ,民も亦漸く軍を離れる次第となったのである。

 

「昭和12~13年頃の暴状」とは云うまでも無く、南京戦及び占領下での日本軍の行いを指す。 また日本軍を「蝗」=「イナゴ」と呼んだ「或る高貴な方」とは皇族の東久邇宮稔彦(ひがしくに のみや なるひこ)王だという。(東久邇宮は、昭和天皇の要請で首相となるが、政府・軍の戦 争責任を曖昧にした「一億総懺悔」論を唱えて反発を呼び、さらに強力な占領政策についてい けず短命政権でおわった。

 

 注目すべきは、この遺書は連合国の占領が始まる前に書かれたものであり、その頃日本国 内で南京大虐殺を知っていたのは、実際に南京戦、占領に参加した将兵と政府・軍の高官以 外にはほとんどいなかったことである。一般の人々がまだ真実を知らず、国家も隠蔽を続けて いた時期に事件を告発した意味は大きい

サイト『世界の片隅でニュースを読む』より抜粋引用ここまで

この国の総理とその取り巻きの歴史修正主義者らにこの一文を読み聞かせたい。

 

番外編 氷川丸(当時は徴用され白塗りの病院船として復員業務に活躍した。)

 記事冒頭の僕の親父は昭和20年秋、ブーゲンビル島から病院船氷川丸で復員、浦賀に降 りた。港で中支からの軍票で茹で卵を買って食べたが物価の高騰には驚いたと言っていた。

 10年程前か、所用で上京のおり、山下公園に係留中の氷川丸を訪ねた、親父がいつも佇 んでいたという船体中央の煙突近くの上甲板に行き、「何を思ってここに居たのだろう?」と60 年前の27歳の親父の胸中に思いを巡らせたことがある。生前「港で見た久し振りの日本女性 は皆美人に見えたんじゃないか?」という僕の問いに笑って大きくうなずいた事を思い出す。

おわりに

 年末から年始と、イスラム国の殺伐としたニュースと二人の邦人の死・・・・いろいろ考えさせ られる日々を過ごしていた。そんな時「親泊朝省」の事を思いだし、アマゾンにて購入し一気呵 成に仕上げた。コピーペーストも多かったが、公表された資料は現代人全ての財産であろうと, それを使用するのに躊躇はなかった。(文学作品を書いているのではないのだ!)

 親泊朝省という、現代の沖縄県人にはあまり知られていない人物を紹介し現在の日本そし て沖縄を見つめる「よすが、手がかり、足がかり」としたかった。

 同じ昭和20年6月末に自決した島田叡も享年43歳、同時代人である。

 

毎年よ彼岸の入りに寒いのは  子規          

「母上の詞(ことば)自ずから句になりて」の前書きあり           H.27.3.20



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